当たり前感しかないのですが、仕事における"勉強"についてちょっと思う部分があったので書いておきます。
「勉強しろ」は「結果を出せ」と言っている
仕事において「勉強しろ」というのは、要するに「結果を出せ」と言っているだけなんですよね。結果につながらない勉強は無意味だし、結果さえ出せれは他の手段でも問題ないわけです。
会社の言う"勉強"というのは、業務時間以外で行われる、会社の売上や利益に貢献する活動のことでしかありません。リベラルアーツ的な"勉強"とは何の関係もないわけです。
「結果を出せ」は正直バカでも言えると思うのですが、それをそのまま言いたくないので「勉強」という少し高尚な言葉で言い換えているのだと思います。
しかし、そもそも仕事というのは何らかのアウトプットを他者に提供することにより、対価をもらうことなので、それそのものは定義上必然とも言えます。
インプットが楽しいかとアウトプットが楽しいかは別問題
そこで問題になるのが、インプットとしての勉強が楽しいかどうかと、それをアウトプットすることが楽しいかは全く別問題なんですよね。
世間では「アウトプット志向」なんて言われます。上記の話からすると、仕事においてはその考えは全く正統なわけです。
逆に言うとインプットとしての勉強自体が楽しい、知識が増え、それが自分の中で体系的に整理され、そこから新しい気付きを得こと自体が楽しいという知的な好奇心は仕事では無意味なものでしかない。
それをアウトプットすべきというのはよく言われることではありますが、インプットが楽しいかと、同一分野におけるアウトプットが楽しいかは本質的には別のものです。
アウトプットのほうが基本苦しいので、インプットが楽しいことより、アウトプットの苦痛が少ないものを仕事にするほうが効率的なわけです。
結局リベラルアーツとしての"勉強"というのは趣味でしかないのだなと思います。