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コンピュータとデザイン

電子書籍ストアでKinoppyが評判いいので使ってみようと思い、アプリをダウンロードして愕然とした。フォントが明朝体固定なのである。.bookのビューアはなぜかみんなこうなので、自分は普段使っているGALAPAGOS Appでも.bookフォーマットの本は読まないことにしている。

WindowsでもMacでも、メインのフォントを明朝体にしている人はいるだろうか? たぶんほとんどいないと思う。それはディスプレイというデバイスとの相性の問題で、ディスプレイだとゴシック体の方が読みやすいからだ。

たぶんデザインした人は、紙の書籍と同じフォントを使うことがより紙の本に近くていいと思ったのだろう。しかし書籍にとって重要なのは、紙に近いことではなく、読みやすいことだ。もちろん新しいiPadほど高精細になれば明朝体の方が読みやすいかもしれないが、現在ではまだかなり少ない例だ。デザインとは何かという点について、根本的な認識が誤っているように思われる。


コンピュータという表示媒体が出てきてかなりの年月がたつのに、多くのデザイナーはまだ紙の呪縛から抜けていないように思われる。それは単純にデバイスの違いの問題だけではない。

コンピュータの場合、画面の大きさも様々だし、個人が適切だと思う文字の大きさも様々で、それを自分でカスタマイズしている人も多い。しかしながら、それらの個人の設定を無視して、デザイナーの好みの大きさを押しつけることはいまだに頻繁に行われる。ブラウザのフォントサイズを無視して本文の大きさを決めうちにするサイト。画面全部Flashのサイト。横幅が固定のピクセルのサイト、コンピューターで読むのに不自由きわまりないPDFという紙に縛られたフォーマット。

コンピュータの場合文字の大きさやフォントを変えることができるのだから、例えばお年寄りに対して読みやすい大きさにするなどのユニバーサルデザインを最も低コストで実現できる可能性があるのに、デザイナーの「俺のデザインを1ドットたりとも違う形で見せたくない」という高慢な気持ちが全てを台無しにしているのだ。

紙のデザインの場合、デザイナーの作った物はそのままユーザーに届くしかない、完全にコントロールされた世界だった。しかし、コンピュータを媒介するデザインは、デザイナーだけではなく、ユーザーもデザインをコントロールできるようになった。

デザイナーはユーザーのコントロールを縛る方向にデザインするのではなく、むしろユーザーのコントロールを柔軟に受け入れるためのデザインをするべきではないのだろうか。それこそが真のコンピュータ時代のデザインではないのだろうか。