鴻池朋子展「根源的暴力Vol.2 あたらしいほね」

鴻池朋子展のために高崎まで行ってきた。Vol.1は神奈川県民ホールギャラリーでやったそうなんですが知らなかった…行きたかった。

美術展というのは作品を観るところだが、個別の作品の体験とは別に、美術展全体を通しての体験というのがあると思う。もちろんそれは個別の作品の体験の総体ではあるのだが、それだけではない。個別の作品の力を足し算にするか、掛け算にするか、はたまた引き算になるか。そこは作家なりキュレーターの腕の見せ所だと思う。

鴻池朋子はその意味で展覧会という形式の力を最も引き出せる作家だと思っていて、今回もその力を強く感じるいい展覧会だった。

今回強く感じたのは3.11以降の思考の追体験だった。3.11以降、これだけのことがあったのだから何か変わらずにはいられない、と多くの人が思った気がする割には、結局何も変わらなかった。3.11から5年という特集が日経新聞で組まれたときに、全ての人が例外なくそう言ったことが印象に残っている。

自分のような会社員は何があろうと結局は日常に埋没されてしまう。その中で作家がその問題に真摯に向き合って、時間をかけて考えて、自然の力というものを意識したときに、土とか皮とかを使うのはある意味わかりやすい。でもそこから考え直すしかないという点は非常に共感したし、それでいて作家らしさは失わない良さを強く感じた。

展示の形式としてはキャプションや解説がないので思考の没入感を妨げないという点がいい。このあと常設展を観て思ったが、キャプションの何が問題って絵画を見る距離と全く違う距離になる点だと思う。リアルな意味での距離が。あと解説は読むと没入感から一歩引いた第三者の立場になってしまう。映画の途中で解説を入れられるようなものだ。

多くの作家の作品を展示する展覧会や、亡くなった作家の回顧展についてはキャプションや解説がないといろいろ困る点もあるのかもしれないが、作家自身が監修する単独作家の展覧会については、解説やキャプションをなくして作品そのものに語らせる試みももっとあっていいのではないかと思う。

まあ読まなければいいと言えばそうだけど、最後に別紙で配って再入場できるようにするとか方法はあるのでは。