旧約聖書

新約聖書に続いて、旧約聖書をやっと全部読み終えました。長かったです。ほとんどがスマホで電車の待ち時間等に読んでいたからもありますが、丸1年かかりました。新約は3カ月程度で読んだように思います。

実のところ、誰もが知っているような創世記とかモーゼとかしか知らない状態で読んでいたので、気付きはそれなりにありました。とはいえぶっちゃけ超退屈です。これを読んで神を信じようとも思いませんでした。

その中で「実はこういう内容だったのか」と思った部分をまとめたいと思います。

モーセはヘタレで、十戒の石板は1回壊されている

旧約聖書といえばモーセ十戒ですが、モーセは最初は神が現れても「いや俺なんかには無理です」みたいな感じで、兄のアロンに頼りっぱなしなんですよね。最終的には自らの使命をわきまえるんですが。

そして有名な十戒の石板ですが、モーセシナイ山から持ち帰るんですが、そのころ民は神ではなく金の子牛を拝んでおり、神は石板を壊してしまいます。そのあとモーセが切り出した石板にまた神が十戒を刻むんですよね。

偶像崇拝は禁止。ただし神殿には異常なこだわり

十戒自体は短いです。そして偶像崇拝の禁止も誰もが知っていると思います。しかし、そのあとの律法がものすごく長く、そこではひたすらに神殿をどう作るべきかとか、祈りの際にはなにをすべきかとかが事細かに記されます。その中には生贄の話もあります。一神教というだけで、宗教としての形式はある意味当時の普通とも言えます。

イスラエルに着いて以降は同じパターンの繰り返し

民がイスラエルについてからの話は、基本的には民が堕落する -> 神が怒る -> 預言者の取りなしで民が改心する -> 神が救う の繰り返しです。もちろん時代が進んで人が入れ替わったりはしますが、それ以外はないです。

新約聖書は体裁としては預言書

旧約聖書は大雑把に言うと、前半が歴史書で、後半は預言書です。預言書は特定の預言者がその時代に神の預言を受けてどうしたという話です。

その意味で新約聖書は体裁としてはそれに続く預言書であり、旧約聖書の神は前提として、イエス預言者としていかに正当であるかということが、少なくともキリスト教が生まれた当時の大きな論点になります。


これだけの時間をかけて読む価値があったのかはよくわからないですが、死ぬまでに一度は通して読んでみたい本ではあったので、その点では満足です。