"さらざんまい"の"欲望"を考える

"さらざんまい"がついに最終回を迎えた。感想はいろいろあるのだけれど、その前にまず"さらざんまい"とは結局どういう物語なのかを自分の中で整理してみたい。

なおこの文章は最終話までのネタバレを前提とするので、最終話を観ていない人は観てから読んでください。





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"さらざんまい"における最も難しいキーワード、それは"欲望"ではないだろうか。"つながり"はわかりやすい。しかし"欲望"はかなりわかりにくい。"欲望"はどのような扱いになっているかを考えてみよう。

  • "欲望"は一般的には良くないこととされている。
  • "欲望は君の命だ"と言われているくらいだから単純に悪いことでもなさそう。
  • カパゾンビは"欲望"が過剰だから犯罪を犯したように見えるが、彼らは"欲望を搾取"されている。
  • カパゾンビになるかの判定は"欲望か愛か"で行われており、"欲望"だと問題があるようだ。
  • よくわからないが"さらっと"が重要らしい

そもそも"欲望は良いものなのか悪いものなのか"がよくわからなくなっている。

先に結論を書いておこう。

  • "欲望"は"つながりに対する欲望"に限定された意味で使用されている
  • "つながりに対する欲望"は時に醜く、社会からは承認されない
  • "つながりに対する欲望"を満たすため、他のつながりを排除したときに問題が発生する
  • 漏洩された"つながりに対する欲望"を、他のつながりによって承認する過程が必要とされている

"欲望"は"つながりに対する欲望"に限定された意味で使用されている

これについては各話のサブタイトルで「つながりたい」とあれだけ言われてるので違和感はないだろう。そしてこれ以下の話もそう考えないと辻褄が合わなくなってくる。

ただ個人的には「欲望」は自身も良くも悪くもそれなりにあるように思うのだが「つながりに対する欲望」と言われると正直あまりない。むしろコミュ障なので「つながりたくない」欲望のほうが強く、その意味でこの前提は自分にとっては大きい。

"つながりに対する欲望"は時に醜く、社会からは承認されない

"つながりに対する欲望"は友情や愛という言葉で一般的には美しく描かれる。しかしこの作品では基本的にその醜さに注目されている。
前半で主人公3名が"つながりに対する欲望"から行う行為は社会的には容認が難しい。
彼らが対峙するカパゾンビも全く同じ"つながりに対する欲望"の醜さを体現している。
ポイントは主人公達とカパゾンビの違いは何なのかにある。それは醜さの程度の問題ではないのではないか。その話はこれ以降で行う。

"つながりに対する欲望"を満たすため、他のつながりを排除したときに問題が発生する

つながりとして2種類のつながりを想定する。
a) 執着のあるつながり
b) 執着の薄く広いつながり
物語前半の一樹であればa)は春河であり、b)は燕太や他の友人や家族だろう。
a)は醜く、b)にも承認されないと考える。その為a)を追求するにはb)への未練を絶ってつながりを排除しなくてはならないと考える。
ここで「欲望搾取」によるカパゾンビ化を考えてみる。直接は描かれかかったが、最終回で久慈に起こったことがそうなのではないだろうか。
つまり「欲望搾取」で奪われるのはa)ではなくb)の欲望なのではないだろうか。

漏洩された"つながりに対する欲望"を、他のつながりによって承認する過程が必要とされている

ではどうしたらいいのか。ここで「漏洩」が関係してくる。
醜い"つながりに対する欲望"の漏洩。本人が承認されないと思っているこの醜さをb)のつながりが承認することが必要になる。
その醜さはそもそも社会にとって承認しずらい重さである。だからこそ「さらっと」承認すること。これが必要になる。
カパゾンビが尻子玉を抜かれた後の「そうかXXXだったんだね」は実はその過程なのだと思う。主人公達も互いの漏洩を不自然なほど「さらっと」承認している。
もちろん漏洩が犯罪であれば、必要な罰は受ける必要があるだろう。当然とても承認できないと思われる可能性もある。
しかし、それでも互いの醜さをある程度相互承認できるつながりを維持しないと、"つながりに対する欲望"の暴走を止めることはできない。これが本作で最も重要なポイントではないだろうか。

まとめ

正直強引な気もしなくもないが、多くのキーワードが一応つながったのではないかと思う。
この話自体は正直何一つ新しい部分はなく、立てこもり犯に「お父さんお母さんは悲しんでいるぞ」と説得するのと何ら変わりがない。

それでもこのテーマを今あえて選んだのは、輪るピングドラムで扱ったオウム真理教の問題、それと同じことは組織を変えても今も起き続けていることに対する回答ではないのだろうか。

"さらざんまい"が過去の幾原作品と大きく異なる点は、久慈の問題の最終的な解決ファンタジーではないという点だと思う。最終回で最も衝撃を受けたのはその点だった。その意味で新しい境地を踏み出した作品なのではないだろうか。