"ゆゆ式"における笑い

"ゆゆ式"について語ることの困難さは理解している。しかしそれでも一度は何か書かなくてはならないだろう。

原作漫画は全部読んでいたが、これまでアニメ版はdアニメストアになかったので観ていなかった。今回めでたくdアニメストアでも放映されるようになり全話観た。いい機会なので「ゆゆ式の笑い」について書いてみる。

ゆゆ式の笑い」は「会話の接続の面白さ」なのではないかと思う。そして「ゆゆ式」の凄いのは、その「会話の接続の面白さ」の一点だけで、エンターテイメントとして十分な人気があって、連載が10年も続いていることだと思う。

「会話の接続の面白さ」をもう一段深堀りしてみると、これは「起きている事象そのものの面白さ」ではない。何を言いたいかというと「あるあるネタ」や「不条理ネタ」と比較してみると明確だと思う。こちらはいずれも「起きている事象そのもの」が面白いのである。「会話の接続の面白さ」はある意味文学的な言葉だけの面白さである。

しかしこの「会話の接続の面白さ」そのものは特に珍しいものではない。文学や演劇においてはこのような言葉遊びをふんだんに取り入れたものも多い。不条理系の漫画でもこういう部分がある。笑いという意味では最も近いのは「漫才」かもしれない。まあ自分は最近のお笑いは全く知らないのだけれど。

ゆゆ式」のやっているのは、ネタとして日常生活から切り離された笑いではない。よく高校生の友人からコンビを組んだお笑い芸人が話すような、学生時代の日常的な会話の中で自然発生的に産まれる「会話の接続の面白さ」。そういうものをクラスの片隅でやっているような日常感で構成しているのが「ゆゆ式」なのだと思う。

この方法は四コマ漫画ならではだと思う。なぜなら全体としての「オチ」がないので、一発ネタではない継続的なコンテンツにしにくい。もちろんお笑いやアートの文脈だと受け入れられるかもしれないが、「4コマでオチていれば、全体としてのオチがなくても良い」という前提の四コマ漫画というフォーマットのほうが自然に展開できる。

アニメ版の最終話のタイトルは「ノーイベント、グッドライフ」だった。「ノーイベント」で長期連載するのは難しく、最もインパクトのある「新キャラ」というイベントを使いたくなる。

ゆゆ式の凄いのは4巻以降は全く新キャラを増やさずに10巻まで続いていることだと思う。これは「起きている事象そのものの面白さ」に頼らずに、確固たる笑いを提供できているゆゆ式だからこそ出来ていることだと思う。

いろいろ書いたけど、ゆゆ式は決して分析的に根詰めて観るアニメではない。自分も観ているときは「縁ちゃんかわいいなあ」とか「お母さんエロいなあ」くらいしか考えていない。ゆるゆると今後も連載が続いていってほしい。