川村清雄展

早すぎた天才のような言い方は総じて誇張のことが多いですが、まさに早すぎたとしか言いようのないのが川村清雄でした。正直展覧会あるまで全くこの人知らなかったです。

家柄も名門なのですが、幕末という時代の変わり目に居合わせたおかげで、1871年から徳川家の留学生の5名のうち1名として、ニューヨーク、パリ、ベネチアという世界の頂点と言うべき芸術都市に10年も留学。まあこの時期絵よりもうちょっと他に学ぶべきものがあったのではないかという気もしなくもないですが。

奇しくも欧州はパリ万博のジャポニズムブームで、日本人の芸術的アイデンティティというものに思いを巡らせます。そして帰国。そのころ日本の洋画の最重鎮である黒田清輝はまだ留学前という状態です。

そして黒田清輝が留学して帰国。日本の絵画界としては洋画はこれから黒田先生に教えを請うて教育を、日本画は日本画で洋画の存在を前提にした新しい日本画とは何かという時期。そのころ川村清雄は…

「洋画とかもう10年前からやってるわー。というか描くこと自体より何を描くかで、欧州の伝統をまねても仕方なくて、日本人であるから描けることを考えるべきだよね」

「日本画ってそもそも岩絵の具でなくても同じように油絵の具で描けるよね。日本画とか洋画とかそもそもマチエールで分けることに意味なくない?」

「だいたい油絵でリアリティとか当たり前で、欧州ではむしろ光をどう捉えるかが今の主題で俺もそこに興味あるんだよね」

地獄のミサワ風に話したわけでは決してないと思いますが、この人のやってることはそのようなことで、既に時代を三週くらい先回りしていたわけです。しかも口先だけでなく激ウマの作品をもって。山口 晃の日本画風油絵に驚いているようでは我々は100年くらい遅れているわけです。

そりゃ当時の日本人に理解されないなと思います。芸術家で天才肌だったこともあり、世渡りのうまい人ではあまり無かったようです。その後晩年に至るまで画風はあまり変わらず、美術史的な評価はあまり高くないように思いますが、美術界とある程度距離を置かざるを得なかったことが原因の一つかもしれません。

いろいろ考えさせられる展覧会でありました。