ザ・マスター

面白い映画ではない。そこにあるのはある種の「確認」である。そしてその確認は、これからを生きるために必要なことだと思う。

最近「7つの習慣」を読んだ。もう20年近く売れている自己啓発書のベストセラーである。この本の面白いところは「原則中心の生活」を基本理念に置くにもかかわらず、原則とは何かについて、本では明示しない点である。それは個人が見つける物であると。その意味でメタ自己啓発書とも言える本である。

ザ・マスターの話に戻ると、この話を新興宗教の話と考えてしまうと、非常に狭い話となってしまう。宗教とは縁遠い日本人であっても、自己啓発書はよく売れるし、セミナーも活発である。経営者やカリスマ主婦の本も売れるし、アップルのように、製品から哲学を悟る物もある。もっと身近な人物に師を持つ人もいるかもしれない。

「原則」は瞑想していても見つからない。「原則」を探すため、多くの人が自分にとっての「マスター」を抱えているのではないだろうか。

それそのものは悪いことでは全くない。本作においても、この団体そのものは「悪の教団」として描かれているわけではないし、だからといって、良くも描かれていない。教団を批判する側に対する暴力もあるが、それはマスターからも問題視されている。

我々も自分のマスターが侮辱されたときには、つい感情的になることもある。そして、最後には自分自身が自分のマスターとなるしかない。ここに描かれるのはそういった、マスターを巡るありふれた日常でしかないのである。

自分自身のマスターは何なのか。そこから今どういう距離なのか。マスターを絶対視するあまり社会的な問題を起こしていないか。相手のマスターを理解できなくても尊重しているか。そういったことに自覚的であることは、今を生きる多くの人にとって必要なことなのではないだろうか。

そして、ポール・トマス・アンダーソンの「パンチドランク・ラブ」以前の作品群そのものが、自分を含むダメ人間たちにとっての「マスター」であったことは否定できないだろう。この作品は監督のある種の決別なのかもしれない。