梅佳代展

もう「アート」とか梅佳代でいいんじゃないですかね。

以前から「男子」で名前は知っていた梅佳代なんですが、ちゃんと見たのは初めて。今回も新国立劇場に行く用事があったのでそのついでだったんですよ。

いままで自分に合わないかなと思っていたのは理由があって、率直に言って「愛すべき人情溢れる人々」的な写真が苦手なんですよ。例として適切なのかはわからないけど、例えは荒木経惟の写真が苦手なんです。

じゃあなんで梅佳代はありなのか? 自分でも不思議に思ったのですが、梅佳代の場合「愛すべき」というある意味上から目線のアーティストさが希薄だからではないかと。率直に言えば「メッセージよりネタの面白さ」を優先してる感じがするんですよね。

そのネタというのがいわゆる「アーティストの目線から見た世界の新しい見方」ではなくて、あくまで普通の人々が日常で面白かったりすること。たぶん多くの人が日常で何気なく出会う出来事で、「写真に撮れば面白いのに」とちょっとだけ思うけど、実際にはできなかったり、やらなかったりすること。そういうものを拾うのが梅佳代じゃないかと思うんですよね。

それらは撮られる人にとっては結構恥ずかしい。それを作品とするのは、ある意味残酷とも言えるわけで、もちろん公開する前には被写体の許可は取っていると思うのですが、そういうドライな感覚が、単なる「愛すべき人情溢れる人々」とはちょっと違う感じがするのですよ。いや愛情がないと言ってるわけではないんですよ。

能登の地元の写真とかもありますけど、そこにあるのはノスタルジーとか郷土愛と言うよりも、単に地元で普通に撮るべき理由で撮ったという感じがします。梅佳代の場合、その「撮るべき理由」の基準が良い意味でアーティストずれしていない。もちろん写真そのものはうまいのですが、そのずれなさが新鮮に思える気がします。

もちろんこれもある意味戦略的な「アート」なのかもしれないですが、なんというかある種の「アート的なもの」にうんざりしていた自分にとって、ああこれでいいじゃんという気になりました。