差別だと言う前に考えること

「AはBであるという言い方は差別だ」という言説をよく聞きます。学歴、オタク、中韓などネットではおなじみのネタです。

ただこれらを考えるときに、そもそも差別なのかという点については、どの件についても本質的には同じなはずなのに、立場によって言うことが変わったり、同じような議論の堂々巡りになったりしていることが多い気がします。それらについて気になるポイントを事実/方法/社会という観点でまとめました。

最初に言っておくと、自分は差別や偏見が良いことだという気はありません。ただし、仮に有意な違いがある場合にどうすべきか。何が悪いのか、どう改善すべきかを考えることは意味があると思いますし、「差別」「偏見」という言葉で見ない振りをすることが必ずしも正しいとは思いません。感情で判断する前のヒントになればいいと思います。

事実の問題

そもそもそれは事実なのか、誰にとっての事実かという問題です。

実際に他の母集団と比較して有意に多いのか

最初に問われるのは、そもそも他の母集団と比較して有意に多いのかという点だと思います。ただし、問題になるのは単純に調査可能なものではないことが多いことも確かです。理由として3つ挙げられます。これらの場合は事実の判定が難しくなります。

1) Bであるという事実が主観的である
2) Bの事象が元々非常に少数でしかない
3) 調査そのものが差別を助長するとされ社会的に難しい

個人的な体験による事実は否定可能なのか

上記と関連しますが、個人的な体験により有意な関係を感じたとして、それを他人が否定できるのかという問題があります。仮にそれについての公的な調査で否定される結果が出ていたとしても、実際の体験として多くのAという属性の人に損害を被った場合は難しいかもしれません。

「Aの全てがBではない」では「Aの多くがBである」を否定できない

よくある言説で「AはBであるというのは間違いだ、なぜならAの属性を持つCさんはBではない」というのがあります。Cは自分であることも多いです。趣旨も感情的にも理解できますが、論理的には「Aの全てがBである」は否定できますが「Aの多くがBである」を否定できません。そして、多くの場合問題は「Aの多くがBである」かどうかなのです。

方法の問題

事実に基づき、あるいは基づかない差別的とされる行動についての問題です。

事実に基づいた行動は悪いのか

仮に事実の可能性が高いとすると、それに基づいた行動を人は取ることになります。実際の合理的な行動の場合もありますし、因果関係の推測の場合もあります。これは悪いことなのでしょうか。

ただし、ほぼ全ての場合において「Aの全てがBである」ということはないことには注意が必要です。Aの7割くらいの場合もあるでしょうし、元の母数が非常に少ない場合、AはBの発生する確率が0.01%高いという場合もあるでしょう。

嫌いは悪いことなのか

事実としての真偽はわからないけど嫌いというのがあります。これについては「そのような事実は統計的にないから嫌いであるというのは論理的におかしい」と他人が言ってもどうしようもない気がします。

それらについて「XXが嫌い」と言うことそのものは悪いことなのでしょうか。人によっては嫌いという感情を持つことそのものが差別的であるという考え方もあるようですが、感情そのものが悪なのでしょうか。

社会の問題

社会的な特殊要因により区別を認めたり、逆に現在は理由を問わず認められない場合です。

事実としての差を埋めるための積極的な差別の撤廃

これらを考える上で、事実として差があることを前提とし、その差を埋めるための積極的な差別の撤廃のアクションを考慮する必要があります。女性差別が大きな例です。

これらの場合は事実として差があってもその観点で区別すべきではない、もしくは差別的に見えても区別するということになり、時には法的な規制がされることもあります。

歴史的な問題

現在は現実的な差がなくても、過去にはそのような社会的な差別があったことを考慮し、その点については厳しく社会的に規制するということはあります。これはこれで社会的な合理性があります。

まとめ

たぶんこれらについてのまともな研究はいろいろあるんじゃないかと思います。これらの問題は特に自分がその対象になった場合は感情的に判断しがちになりますが、どうすべきかを決めるのは属性ではなく個人でしかありません。そのためにこれらの言説を分析的に解釈し、自分の糧とすることもまた必要ではないかと思います。