ザハ・ハディド展

現代における建築を考えるにはなかなか面白い展覧会だった。

ザハ・ハディドと言ってもピンと来ない人が多いかもしれないが、あの新国立競技場の建築家である。建築の展覧会というのはつまらないことが多いので基本行かないのだが、以下のインタビューを読んで逆に興味を持った。

http://www.huffingtonpost.jp/2014/04/01/zaha-hadid_n_5067006.html

展覧会としての特徴は「ザハ・ハディドの思想をぜひ会場で体感してください」と展覧会の説明で書いてある割には、建物の建っている場所、目的、それに対する設計理念、思想的背景などの説明が「全くない」ことである。建物の名前すらチラシにしか書いていない。

これが何を意味しているかというと、ザハ・ハディドの建築が脱文脈的で、技術可能性としての彫刻的建築であることに特化しているという点ではないだろうか。だとすると、ザハ・ハディドが建築家にあれだけ非難されるのも、そして賞賛されるのも理解できる。

建築が用途だけでなく、環境、歴史、文化との調和を考えないというのは現代ではありえない。これらの環境、歴史、文化が建築における「文脈」であって、それらをいかに考慮し、形として消化したかというのが現代建築における「優秀さ」である。だから建築展ではそれらの文脈と思想が長々と語られる。

ところがザハ・ハディドはそういう文脈を全部無視してしまう。まるでゲームに出てくるような中二病的カッコイイ建物を実際に立ててしまう。「文脈」に縛られた建築家の皆さんが「俺たちにできないことをやってくれる」と思ってしまうのも、「いやルール違反だろ」と思うのも無理ないわけだ。

自分は東京オリンピック自体に反対なので、新国立競技場に限らず、新たにオリンピックのために施設を建築するのは全て無駄としか思わない。

ただ正直な感想をいえば、現代建築の文脈重視の御行儀のよさには食傷気味なので、あえてそれらをぶっ壊す施設を作るのもありかという気はしている。また「オリンピックで高度成長をもう一度」という石原元都知事の1960年代的価値観に最もマッチする建築であることは確かだろう。