超えていく風景 梅沢和木

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本展は梅沢和木とTAKU OBATAの二人の展覧会で、TAKU OBATAの彫刻も面白いのだけど、梅沢和木についてだけ語ろうと思う。

梅沢和木はいわゆる「カオス・ラウンジ騒動」で知っていたが、まとめて作品を見たことはなかった。作家数の非常に多い展覧会で1点だけでみた気がするが、あまり印象はなかった。

今回は梅沢和木メインの展覧会と言っていいくらい、梅沢和木の絵で吹き抜けのスペースが埋め尽くされている。その空間で感じたのは、圧倒的な「わかりみ」だった。

梅沢和木の作品はネットの画像、特に美少女アニメの画像のコラージュになっている。

これまでこのような埋め尽くす系のコラージュ作品というのが個人的には好きではなかった。しかしこれを観て、コラージュというのは作家の見ている世界であり、その世界が自分にシンクロするかどうかが重要なのだと理解できた。

これにコラージュ元の作品に対する敬意がないと怒る人がいるのはよく理解できる。自分も美少女アニメは好きだ。愛していると言ってもいい。そうでなければ"未確認で進行形"や"ゆるゆり"についてブログで熱く語ったりするだろうか。

しかし、だからこそ、梅沢和木のコラージュの絶望に共感できるのだ。美少女アニメは成人男性の現実逃避の象徴としてよく挙げられる。もちろん彼女らは現実ではないことはよくわかっている。それでいながら、美少女に逃避しなければ現実は厳しすぎる。その絶望の彼岸がこの作品にはあるように思う。

そこには、この手の作品にありがちな女性の性の商品化に対する非難のような要素はない。単に素材としてのみ処理される。「女性の性の商品化は問題だ」「アニメではなく現実の女性と関係を持つべき」もちろんそのような正論はわかっている。そういう話ではない。

同じ萌え絵を扱った先駆者としては村上隆やMr.がいるが、彼らによって文化としての萌え絵を芸術にすることはやりつくされてしまった。もはや切り刻むことで、愛と絶望を表すしかないのだ。