最後の預言者としてのジョブス

押井守攻殻機動隊の映画を振り返り、20世紀はイデオロギーの時代だったけど、その後はテクノロジーの時代が来ると思っていたという話をしていた。

確かに1990年、2000年代はテクノロジーが宗教だったけど、その時代は2010年代で終わったように思う。

もちろんテクノロジーの進歩そのものは止まることはない。今後もどんどん進んでいくだろうし、それにかかわる仕事がなくなることも当分はないだろう。でもそれが宗教だった時代はもう終わったのではないかと思う。

ここで自分がこの文章で述べる「宗教」の定義を明確にしておく。もちろんこれが正しい定義だというつもりは全くない。あくまでこういう前提の下でとらえるという話である。

「宗教」とは「社会にとって正当な手段で幸福になることをあきらめた人々が、別の手段で救済されることを求める根拠となる価値観」なのではないかと思う。

「正当な手段で幸福になる」というところが重要で、現代の民主主義、資本主義国家においては、正当な政治手続きや、経済活動になるだろうし、それ以前ではそもそもそれすらなかっただろう。

あえていうならそういう「下層階級」が生きるために必要とする価値観ともいえる。もちろんそれは支配者に意図的に作成されることもあるだろう。

長い時代において、その位置を占めてきたのは既存の宗教だった。近代以降においては、その位置は啓蒙思想イデオロギーナショナリズム、テクノロジー、経済成長などいろいろなものが並立してきたように思う。

テクノロジーが宗教としての位置を確立してきたのは1960年以降ではないかと考えている。テクノロジーの方向は変わってきたけれど、近年はそれがITだったことは明白で、パソコン、インターネット、そしてスマートフォンによる技術の民主化は確かに革命的だった。

ただその風向きが変わったのが2010年代で、ITは格差を拡大するためのシステムなのではないかという認識がむしろ一般的になった。もちろん既存のテクノロジーにも同じ指摘は何度もあったが、これまでと異なるのはITの次がない。

もちろん技術は進歩するけど、人々が無条件で価値を妄信するようなテクノロジーはないように思う。AIがまさにその象徴で、利便性を認められながらも、格差の拡大を招くことを非常に不安視されている。

また、日本においては2011年の福島原発事故の影響は無視することができないだろう。もちろんこれまでも原発に反対する声はあったし、国のエネルギー政策は結局変わっていない。とはいえ産業界からすら原発懐疑論が出るというのはこれまでは考えられなかった。

そう思うと、最後までテクノロジーで一般大衆にも魔法をかけることのできたジョブスは、テクノロジーという宗教の最後の預言者だったのではないかと思えてくる。ジョブスも2011年に亡くなった。

テクノロジーの次に何が来るのか。目下のところナショナリズムが再度復活しているように思うが、それは政治的な行動が注目されやすいからでないかという気もしている。

個人的には、従来の宗教とは違う、もっと個人的な「尊さ」をベースにした宗教的な何かになるのではないかという気がしている。その「尊さ」には、先のエントリでも書いたオタク系コンテンツにおける「尊さ」も含んでいるのだ。