神話としてのレヴュースタァライト

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8月は少女☆歌劇 レヴュースタァライトにものすごくはまっていた。暑くて精神が参っていた部分もあるかもしれないが、アニメにここまではまったことはかつてないレベルではまっていて少し精神的にまずい感じですらあった。

まずはなるべくネタバレなしで、全体として思うことを書いてみたい。

少女革命ウテナは何が刺さったのか

レヴュースタァライトの前にまずは似ていると言われている少女革命ウテナについて書いたほうがいいように思う。

少女革命ウテナは初めて見た時本当に衝撃的だった。その時感じたことは今も強く覚えている。過去のアニメーションの中から、ケレン実のある演出的要素と物語内の物語を組み合わせることにより、結果として物語の芯を抽出することに成功している。

レヴュースタァライトはこれを現代的な形で少しわかりやすくして、そこから悲観ではなく希望を見出す物語なのだと思う。

現実と神話としての物語

物語が人に与える影響として、現実の側面と、神話の側面があるのではないかと思っている。

現実の側面とは、自分と類似の境遇にある人物に感情移入することで、共感をもらうことを疑似体験したり、物語の人物の問題の解決方法に、現実の問題の解決方法のヒントをもらったりすることである。ここでは自身と物語の類似性と具体性が重要になる。

神話の側面とは、逆に物語を自身とは異なる高みの理想の状態とおくことによって、物語そのものの神性を感じる。ある意味現実から逃避することである。この場合、物語は自身とも現実とも類似している必要はないが、自身の理想には一致している必要はある。

必ずどちらであると決めつける必要もないし、物語だけでなく、スポーツ観戦などにも同じ側面があるのではあるのではとは思う。

現実と神話としての百合

上記の話はレヴュースタァライトで強いとされている百合要素にも大きく関係あるように思っている。

現実としての百合というのは、本当に女性が恋愛対象の女性にとっては当たり前だろう。ただ現実の恋愛対象は異性であっても、百合に対して恋愛やセックスを求める人もこれに含むように思う。

これを求める人達は現実のレズピアンの方々に対してもそれなりに興味があるのではないだろうか。

神話としての百合というのは、恋愛というより、ソウルメイト的な関係性。実際にそんなものがあるかどうかはとにかく、そういったものの神性を求める。「尊い」というのはまさにそれを表す言葉なのだと思う。

これを求める人達は現実のレズピアンの方々には何の興味もないように思う。現実とは異なるものだからこそ百合を求めている。

言うまでもないが、どちらが正しいとか誤っているというつもりは毛頭ない。自分は完全に神話派です。

神話としてのレヴュースタァライト

レヴュースタァライトは圧倒的に神話としての物語であり、そうであることに対して徹底的に意識的である。

戯曲スタァライトは神話的だ。正直スタァライトの話そのものは、何がそこまで彼女らを引き付けるのかわからんと自分も思っていた。多くの神話や古典と言われるものはそのような面が強い。

しかしながら、物語の二重構造の中で、彼女たちが神話と一体化し、そしてその神話の呪縛を超えていくこと。それによってレヴュースタァライトそのものが神話化する。

彼女らのスタアライトへの想いが、観客のレヴュースタァライトへの想いと一体化する。その構造そのものが本当に素晴らしいと思う。

神話はたしかに現実逃避かもしれない。しかしその神話が持つ「きらめき」によってのみ再生産される我々の「きらめき」もあるのではないかと思う。そこに物語の本質はあるのではないだろうか。