実効性のある妥協点以外の議論は無意味

ネット上の揉め事は気分が悪くなるだけで何の利益もないので極力見ないようにしています。ただどうしても目に入ってくることもあるわけで。

正直あまり書きたくもないのですが、心の中でモヤモヤする部分もあり、一度特定の事案によらない一般的な揉め事について思うことを書いています。

Twitterはデモであり議論ではない

Twitterは全て議論としての価値はないと思います。たとえ内容が素晴らしいものであっても、手段がTwitterであるという時点で議論ではないです。でも現実世界におけるデモと同じレベルの価値はあるのかと。

デモというのは、自分の意見の片方向の表明であり、それそのものは双方向の議論を前提としていない。そのような意見を持つ人が多いということを表明することで、別に議論をするきっかけを作ることが目的です。

共感を呼びやすくわかりやすい反面、手段がエスカレートすることで暴力となることも、デモとTwitterは変わりません。

原則の話か妥協点の話か

ブログ等ではある程度論理的な話が出てきますが、その際に注意したいのが、原則の話か妥協点の話かという点です。

原則の話は議論そのものが目的の人にとっては面白いかもしれないですが、それを読んで心を入れ替えましたという人はほとんど出ないのではと思います。

特に倫理観に関する話は、大抵の場合正論は明確であり、どこで妥協点を見出すかが問題なので、そこで原則の話を持ち出しても相手を怒らせるだけで意味がないです。

歴史の話も絶対的な正しさというのは証明できないので、原則の話をしても議論のための議論にしかならないように思います

実効性のある妥協点の話か

妥協点の話において注意したいのは、それが現実に実効性のある話をしているかという点です。

実効性のない妥協点の話は、それを適用したときの効果、コスト、リスクが曖昧で、結局のところ自分の思う原則を押し付けるだけになりがちです。いわゆる「ゴールポストの移動」も起こりがちです。

自分は「結果ではなく議論が目的」という人も信用できないと考えます。議論は技術なので、議論だから公平であるというわけではありません。単に自分の得意な議論で相手を痛めつけたいだけかもしれません。本人は「正しいこと」だと思っているかもしれないですが。

極論は放置しよう

ネットの議論を見ていて思うのが、相手の陣営のうち、最も極端な考えを持つ人を攻撃する議論をしている人が多いことです。

極論は目立つし、こんな基本的なこともわからないのかという気持ちにもなるでしょう。でもそこにコストを払っても現実的な妥協点を見出すことにはほとんど意味がありません。

それよりも、ある程度問題に対して冷静に考えることができるが、相手の原則は受け入れられないという人同士で、実効性のある妥協点について話すことが、意味のある唯一の議論ではないかと思います。