アンガーマネジメントの問題点

アンガーマネジメントの問題点は「ストレスの原因を改善したいという思考」と「そのために取る行動」の分離ができていないことではないかと思う。

先日アンガーマネジメントに対する軽いセミナーを受けた。アンガーマネジメントについては以前書籍も読んだことがあり知っていることも多かったが、その中で気になったのは「静かな怒りは改善のモチベーションにもなりうる」という話だった。

もちろんアンガーマネジメントの話なので「怒りは絶対的に悪であり、良いことは何もない」という前提で話は進み、「静かな怒り」については深くは触れられなかった。

ただ自分も以前から感じていたアンガーマネジメントに対する違和感は、この「怒りが良いモチベーションになるか」という点だと思う。

ここでアンガーマネジメントで言われる「怒り」の要素をもう一段分解してみる。

ストレス =>
ストレスに対する一次感情(つらい、悲しい) =>
ストレスを少なくしたい =>
ストレスの原因を改善すればよい =>
ストレスの原因に対する行動

分解するとわかると思うが、これ自体に問題はない。問題とされるのは何かというと「ストレスの原因に対する行動」が長期的な思考を欠いていたり、威圧的に行われることである。

アンガーマネジメントの方法は2種類の方向性がある。一つは「短期的な行動を避ける」ためのものであり、6秒ルールはこの方向だろう。もう一つは「ストレスに対する感情反応そのものを減少させる」方向である。アンガーログはこの方向だろう。

この「ストレスに対する感情反応そのものが悪である」という発想は非常に仏教的だ。しかしこれは本当に望ましいのだろうか。もし仏陀が城下の人々の窮乏を「他者の問題」として感情的に分離していたら出家しなかっただろう。

もちろん短期的な行動を抑制する手段として、感情反応自体を抑制することは対処としては間違っていない。あまりにも細かいことに反応しすぎな人はその対応も必要だろう。

ただその一方で、感情反応そのものが悪であるという発想は、むしろ社会問題を改善しようというモチベーションを減らし、社会的理不尽を甘受すべきという圧力にもつながる可能性がある。

変えるべきは「ストレスの原因に対する行動」であって「ストレスに対する感情」でも「ストレスの原因を改善したい」という思考でもない。

元々「怒り」という言葉には「ストレスの原因を改善したいという思考」と「そのために取る行動」の両方の意味がある。

問題は「アンガーマネジメント」がそこを区別せずに扱っている点ではないだろうか。「長期的な思考を欠いていたり、威圧的に行われる」問題行動に「怒り」以外の何か別の名前を付ける必要があるように思われる。


また特に議論の場合に「問題認識と結論の正当性」と「感情的な議論方法」の話は分離して考える必要がある。

自分自身「感情的な議論方法」になってしまい、後で反省することもある。しかし後から冷静に考えても「問題認識と結論」そのものは特に間違っていないことも多い。

しかし「問題認識と結論」が正しいかということと、「感情的な議論方法」が適切かというのは全く別の問題である。逆に「感情的な議論方法」だったから「問題認識と結論」が誤っているということにもならない。

それはテロに対する批判と同じでである。テロという方法そのものは問題だが、テロを引き起こした問題認識と主張が正しいか間違っているかは別に考える必要がある。

アンガーマネジメントの文脈では「感情的な議論方法」を悪く思うあまり、「感情的な人は頭が悪い」と言った文脈で語ろうとする。「激高型の名経営者」がいるのも事実ではある。それは上記の分離ができていない考えである。