鴻池朋子 物語るテーブルランナー

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「あなたには価値がある」ことに具体的な「形」を与えること。

これはアーティゾン美術館の「ちゅうがえり」という展覧会の作品の一つである。鴻池朋子の展覧会は何度も観ているのでこの作品も観たことがあったと思うし、これまでなら正直あまり関心を惹かれないタイプの作品なのだが、今回何故か思うところがあったので書いてみたい。

「物語るテーブルランナー」という作品は、滞在型の作品制作期間中に知り合った女性たちの、主に子供のころの話を元に、参加型でランチョンマットに刺繍を作るという作品である。

特段言い伝えや民話でもなく、戦争体験のような大きな事件性があったりもしない。「小さい頃のことでなにか覚えてることある?」って聞かれたら出てくるような話である。

過去の自然に対する郷愁を感じる部分もあるが、別にそうでない話もあり、彼女らにとって実際そうだったから以上の教訓的意味あいはない話だと思う。

「どんな人にも知られざる歴史がある」みたいな重い話でないことが重要である。だれであっても一つくらいはありそうで、自分にとってはそれなりに思い出深い話かもしれないが、社会全体にとっては取るに足らないレベルの話。だからこそそれには「私だけの話」であるという意味がある。

「子供のころの話」である事には重要な意味がある。大人になってからの話は「社会性」が大きく、人による重さの差が大きすぎるのだ。だれもが「大きな物語」の中で必死に生きようとする以前の「子供のころの話」でないと意味がない。

そういう「私にとっては価値があるけど、社会全体にとっては取るに足らない、誰にでも平等にある話」を「価値がある」として作品という形に作ること。そこに価値があるのだ。それは言うまでもなく「あなたという個人には価値がありますよ」と言うことでもある。

自分も含めて多くの人は、自分自身に価値があるのかどうか不安があるのではないか。仕事や家族や宗教によって、その価値を確認しようとするだろう。しかし仕事は稼いだ分の価値以外は認められない。家族は誰にでも等しくあるわけではないだろう。宗教も信じないものには価値を認めない。

「あなたには価値がある」という言葉はあふれている。しかしながら「価値がある」ということを、もっと具体的な作品という形にする。そういう試みがこのプロジェクトなのだと思う。

それはある意味「日常系」なのではないだろうか。