ベタに感動するのは人として当然なのか

この文章の「ベタとメタ」という対比はかなり面白いと思いました。ただ率直に言って同意はできない。理由はベタこそが「人間の感情の根源的な部分」という考えに疑問を感じるからです。そこについて少し書いてみたいと思います。
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まずこの文章に出てくるヴァイオレット・エヴァーガーデンの話をしましょう。自分はアニメ版も2つの映画版も両方観ています。ヴァイオレット・エヴァーガーデンは長いので今後ヴァイオレットと略します。

ただそれはヴァイオレットが大好きだからというわけではない。単に友人と「推しアニメの交換」要するに「お前の推しを観るから俺の推しを全部観てくれ」をやったからです。

率直に言えば、ヴァイオレットは丁寧に作られているとは思うものの、特に感動はしなかったです。むしろベタ過ぎて観るのが苦痛だった。交換条件でなければ絶対に観なかった作品だと思います。

ではどの作品と交換したかというと、このブログで何度も書いているレヴュースタァライトです。よく考えてみるとヴァイオレットとレヴュースタァライトはまさに「ベタとメタ」を象徴する作品になっていますね。レヴュースタァライトは物語内物語がテーマなのでメタそのものです。

「ベタとメタ」というのは対極のようでいて、実は特定の物語構造を共有している前提があるという点では同じです。メタのほうはわかりやすいですね。ではベタのほうはどうでしょうか。

ベタのほうも「ある一定の展開から通常予想できる物語」という前提を共有していないと、そもそも「ベタ」という認識ができません。その意味ではベタとメタは、一般的な物語構造を前提とした上で、この物語ではどの立場をとるかという選択の問題にすぎません。

では「ベタに感動する」とはどういうことなのでしょうか。一つには物語の展開そのものではなく、その演出やセリフの選択に感心するというのがあるでしょう。例えばヴァイオレットの7話で湖を飛ぶシーンは自分も映像の美しさには感動しましたし、どこかかみ合ってないやり取りも好きです。

二つ目に物語の展開の大筋はよくあるが、細かい仕掛けのうまさに感動するという点です。例えばヴァイオレットの10話ですが、正直自分はエンディングまではまあ良くできてるなという感想だったのですが、エンディング後の展開には確かに感動するものがありました。ベタをわかったうえで、そこにあえて一押しを加えるうまさですね。

そして何より重要なのは、そのベタな物語構造に、自分自身の人生の物語を重ねることができるかではないかと思います。これにより自身の人生に対する肯定感を得ることができる。しかしながら、この感動は同じような人生経験をしていない他者には共感できない。自分は未婚なのもあってか正直そこは全く共感できる部分がなかった。

怖いのは、自身の人生経験こそが「人として正しい」経験であり、それを経験していない他者は誤っているという思想を持つこと。それが結果として「この物語に感動するのが人として正しい感情」という発想になる事です。その意味でヴァイオレットのベタへの感動を「人間の感情の根源的な部分」と言うことには問題がある。

これは別にベタな物語に感動することが悪いというわけでも、感動したということを人に伝えることが悪いというわけでもない。ただ「感動するのは人として当然」という発想はすべきではないと思います。