"ケア"としての日常系

日常系とはケアなのだ。

何を言っているのかわからないと思うので順番に説明する。"居るのはつらいよ"という書籍を読んだ。タイトルだけでは内容がさっぱりわからないので少し内容を説明する。この本は読みやすくて面白いので興味あれば読んで欲しい。

この本はある心理士が沖縄のデイケア施設で、4年間勤務した実体験を基にした話である。

ここでデイケアというのは高齢者向けではなく、入院するほどではない軽度の精神疾患をもつ人たちのデイケアである。このデイケア施設で行われているのは"居場所型"デイケアと呼ばれるらしい。その逆は"通過型"デイケアである。

居場所型と通過型の違いは何かというと、"通過型"は回復して社会復帰をすることが目標の短期型のデイケアである。"居場所型"は回復そのものが目的ではない、"居る場所"そのものを提供することを目的としているので結果として長期になる。高齢者のデイケアはこちらに近いのかもしれない。

また"ケア"と"セラピー"という概念が出てくる。もともと彼は大学の博士課程でセラピーの研究をしていて、臨場のセラピーをしたいと強く望んでいた。フルタイムでセラピーができるという条件は厳しく、結果としてこの沖縄のデイケア施設に就職した。実際にはケアを行うことのほうが多かったわけだ。

"ケア"と"セラピー"の違いについても説明する。ここで"ケア"は何らかの他者の協力が必要な状態にある人を、傷つけずに受け入れることだ。"セラピー"も癒しのイメージが強いが、本来はカウンセリングで自身の心理的問題の原因を明らかにして、次に進めるようにすることらしい。先ほどの"居場所型"と"通過型"に概念的には対応している部分がある事がわかるだろう。



前置きが長くなって申し訳ないがここから本題に入っていく。

この物語は、この居場所型デイケア施設の日常を描いた後に、それがある理由によって終わっていく過程を描いていく。このデイケア施設の日常に、非常に日常系と似た部分を感じたのだ。いや日常だから日常系だろうというそれ以上の意味で。

居場所型デイケア施設の日常は以下のような特徴を持つ

  • ここにいること自体が目的であり、社会復帰することは必ずしも目的ではない
  • スポーツ等もやったりはするが、上達や勝利を目的としたものではない
  • 何度も同じことが繰り返される
  • 不器用ながらも互いの存在を肯定しようとする
  • メンバのある種のエキセントリックな出来事に対して、冷笑や馬鹿にした笑いではない、心からの笑いが起きる

精神疾患を伴うメンバのデイケア施設なのだから、実際の現場は自分の想像もつかないくらい大変なのだろう。だけど文章そのものの軽快さも相まって、自分はここに普段親しんでいる日常系のアニメや漫画とものすごく似たものを感じたのだ。

もちろんここにいるのは女子高生ではない。そんなことは当然わかっている。それが誰であるかということではなく、そこで起きていること、そしてそれが何のためにあるのかということに、日常系を感じたのだ。

日常系においては、なんでもない楽しい日常が永遠に繰り返される。基本的には事件も成長もなく、それらは意図的に排除されている。もちろんアニメや連載の終わりはあるが、特にアニメにおいては最終話で1話に対してループを示唆する終わり方をするものがそれなりにある。

それは日常系が「ただそこにいること」を肯定するケアとしての物語なのだからだと思う。実際の社会においては、誰もが「役に立つこと、成長すること」を非常に強く求められる。だから日常系という世界で、存在そのものを肯定されるはかない夢を見るのだ。

しかし大きな違いもある。デイケアという場に比べて、日常系のコンテンツの消費は双方向のケアを提供しないことだ。私をケアして欲しいという欲求だけでなく、他者が「ただそこにいること」を肯定することができるかどうかが問われるだろう。