IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治

アメリカでなぜ白人中高年労働者にトランプが支持されるかについて、自分が読んだ中では最も納得感がある理論だった。もちろんアメリカだけではなく、日本でもなぜ男性労働者が右派を支持するのか、オタクとフェミニスト犬猿の仲なのかなどにおいても適用できる理論である。

結論としては、左派の関心が経営者と労働者の対立から、特定集団のアイデンティティの問題に移行したからである。結果として右派が多数派のアイデンティティにつけこむことができるようになった。以下でもう少し詳しく説明する。

ここでアイデンティティというのは「敬意をもって平等に扱われたい」という欲求である。アイデンティティは長いので尊厳と書く。

本書で指摘されているのは、近代以前では尊厳の欲求は兵士などの他者のために犠牲を払う一部の人の欲求であった。しかし、現代ではその欲求を全ての人が、自身の提供する社会的価値とは無関係に要求するようになったということである。

「自身の提供する社会的価値」というのは、まあ経済的価値といってもいいだろう。大企業の社長とアルバイトでは提供する経済的価値は違うし、それが報酬の差になるのは問題ない。しかし尊厳においては平等であるべきだというのが近代以降の考えとなった。

しかしながら特に経済的な弱者においては自身の尊厳が認められていないと感じる人が多い。尊厳は個人においても、自身の所属する集団においても存在しうる。その集団は国、人種、移民、性別、性的志向、労働形態等様々である。ここまでは特に面白い話ではない。

ところがこれが政治とからむと話がややこしくなる。冷戦終結までは左派というのはその近さに違いはあれ、経営者と労働者の階級闘争への関心が基本にあった。もちろんその中でフェミニズムなどの特定集団の尊厳の問題にも取り組んできている。

それが冷戦終結後、共産主義という旗印が瓦解してしまったので、関心が経営者と労働者の階級闘争から、個別の集団の尊厳の問題に移行してしまった。

特定集団の尊厳の問題というのは、基本的には潜在的弱者の機会平等の問題なので、それに取り組むこと自体は良いことである。問題は構造上、特定集団に該当しない多数を非難する方向にならざるを得ないということだ。

機会の平等というのは結果の平等ではない。わかりやすい例でいうなら、フェミニストは男性と女性は機会の点で平等でないので、結果も平等になっていないと主張する。これ自体には根拠はもちろんある。

しかし男女差のみが機会の平等の全てではないし、結果として男性の中にも成功した人も失敗した人もいる。成功した人なんで一握りだ。その状況において「男性である」というだけで「お前たちは生まれながらにして簒奪者であり罪人である」と断罪されることに対して、成功しなかった多くの男性は自身の尊厳が失われたと思うのではないだろうか。

移民でもLGBTでもない多くの男性は、左派によってあらゆる少数者の尊厳の文脈において、生まれながらの罪人とみなされる。もちろん左派の中には労働問題や格差の問題に取り組む人もいる。しかしながら全体としては、左派は今や自分達男性労働者の敵であるという感覚のほうが強くなるのは無視できないだろう。

結果として、経営者と労働者という文脈では経営者側の右派が、男性労働者の尊厳を支持することで、彼らの支持を得ることもできるようになったというのが現状の理解である。

この問題の対処はかなり難しいように思う。本書は排外的なナショナリズムではない本来の意味での国家に対する尊厳を求めるべきという意見である。国民国家という枠組みはそう簡単に変わることがない以上、正論ではある。

しかしながら移民の多い国では母国への尊厳を重視したいという考えはまさに議論の的となるだろう。日本においては国家に対する尊厳は歴史的経緯からかなり強い警戒があって、これも議論が大きくなりそうだ。


ここからは本書にはない自身の考えになる。

一つはあえて機会の平等より結果の平等に着目するようにすべきではないかということ。共産主義の失敗の影響で、現在は過度に結果の平等を軽視しすぎているように思う。

機会の平等、特に法律などで明文化されていない特定集団の機会の平等というのは、存在を証明すること自体が難しいものも多い。再配分による結果の平等のほうが明確だと思う。経済的再配分だけでなくアファーマティブ・アクションのようなものも含まれるだろう。

もう一つは「好きは尊厳の最後の砦」なのではないかということ。

能力による経済格差がある事、それによってある程度尊厳が侵害されることは、資本主義である以上受け入れざるを得ないだろう。仕事以外で他者からの承認を得ることで尊厳を獲得するのも仕事以上に大変である。結婚や宗教も誰にでも尊厳を与えてくれるわけではない。そのうえで尊厳の最後の砦は「これが好き」なのではないかと思っている。

自分のようなオタクがなぜ萌え絵非難に対して過剰に反応するのかというと、それは「好きということが尊厳」だからではないかと思っている。そして非難するほうもこれは女性の尊厳の戦いだと思っている。尊厳と尊厳の戦いは永遠に終わらない。

何かを「好き」であること、そして同様に明確な理由がなくても「嫌い」であること。これだけは互いが理解できなくても認めていくべきではないかと思っている。