土門拳×藤森武写真展 みちのくの仏像

写真の構図によって実物を見るより仏像に親しみが持てるようになった。八王子市夢美術館。

自分は仏像ガチ勢というわけではない。仏像を観ることを目的として旅行に行ったりはしない。せいぜい展覧会に行ったり、行った先の寺にあったら観たりという程度である。

仏像は当たり前だがただの人の彫刻ではない。宗教的記号であることが仏像のあるべき姿だ。ただそれによって仏像の別の面として備わっている、彫刻としての良さを感じることに少し難しさを感じている。

では仏像を「人」から「宗教的記号」たらしめているものは何だろうか。一つには「形式」があるだろう。今回の写真展で気が付いたのは「構図」もかなり大きな影響があるということだ。

仏像は通常等身大くらいの大きさで、ほぼ正面から全身を見ることになる。人間は相手と正面から向き合うときに第三者の立場に立つことができない。実際に言葉を発しなくても、緊張感をもって相手と対話することを求められる。それは宗教的対話によって自身と向き合うために必要なことだ。

藤森武の仏像写真は、正面から全身を撮ったものは少ない。ほとんどが斜め横からの顔のクローズアップである。バストショットや全身の物もあるが、正面ではないものが多い。メディア等で普通に自然な人物の写真が出るときと同じ構図なのだ

それによって仏像を第三者として客観視できるようになる。同じように見える顔にも少しずつ違いがあることに気が付く。仏像といっても自分と同じおっさんの顔なのだ。なんだかセリフを当ててみたくなる。あえていうなら仏像の「キャラクター化」ができるようになってくる。

それが「仏像」の本来の宗教的目的から考えて望ましいことなのかはわからない。でも少なくとも自分にとっては仏像との距離は少し近づくことができた気がする。