母性のディストピア

物語の解釈や時代の分析は面白い部分があった。しかし結局最後は俺だけを信じろ感がある。

評論の書籍というのは基本的に敷居が高い。特定の作品のレビューであれば、その作品を観ていれば語られる前提は理解できる。書籍となると、語られる作品も多岐に渡るので、少なくとも半分くらいはそこに出てくる主要な作品を知っていないと話の前提にまず到達しない。

その意味では、この本は自分にとっては少なくとも最低限の前提はクリアできていた。宮崎駿押井守庵野秀明についてはだいたいは一度は映画は観ている。実は富野由悠季が一番観ていない。大人になってちゃんと観たのはターンAだけだ。それもとりたてて面白くは感じなかった。

宇野常寛の書籍を読むのはこれが初めてで、いくつか検討したが、最新作であるという点以外で観ている作品が多そうというのはあった。

また評論というのは作家やある括りの作品群をベースに語るものと、自身の主張をベースにそれを裏付ける作品を作家を問わずに挙げていくものとの二種類にわけられると思っている。

この書籍が面白いのはその2つのちょうどハイブリッドになるように構成されていることだ。「母性のディストピア」という非常に強い問題意識を持つ主張がベースになる一方で、語られる主要な作家も上記の4名にほぼ絞られている。

これは書籍として強い一貫性をもつことができる一方で、この主張に沿ってのみ物語を評価しようとすると、雑な評価になっているように見える部分もあった。具体的には最終章の2016年のアニメ映画作品群についての部分である。「聲の形」が日常系というのはさすがに議論が雑すぎるように思う。

「政治と文学」の関係性の変化を中心に、物語の時代から仮想現実の時代へいう捉え方は、わりと納得感のある時代分析のように感じた。自分は古い人間でなおかつコミュ障なので、どうも仮想現実の時代にはついていけない。

「母性のディストピア」はざっくりとした自分の理解では「右派も左派も結局アメリカとグローバル資本主義の恩恵の中で喧嘩してるだけだろ」ということだと思っている。

そのうえで「第三極のリアリスト」「問題解決型の共同体」みたいな主張はこの手の話の定番の終わり方であり、正直に言えば拍子抜けした感がある。もちろん実際に提案を行っていること自体は評価できるが。

まあ自分も押井守作品の中で最も評価の高いのは「機動警察パトレイバー2 The Movie」だし、2016年の映画でどれが一番好きかと言われると「シン・ゴジラ」だ。その認識があっているのであれば、たぶん何か一致して現実を変えるためにできることがあるのかもしれない。