運命という名の呪い: 劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト

劇場版スタァライトのネタバレ有り感想の2回目。前回はこちら。
"私たち"とは誰か: 劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト - yamak's diary










本作で一番衝撃的な展開は母親の妹のマキさんの「調べないの?」ではないかと思う。華恋の過去編が始まって、ロリひかかれ可愛いなあと思っていたのだが、「調べないの?」を聞いたときに「ここに切り込むのか」と戦慄した。

「小さなころからの約束」というのは物語としては定番だ。「まあ実際にはないんじゃないの」なんて思いながらも、いやそう思うからこそ一つのファンタジーとして当然のように受け入れてきた。その「当然」を疑ってきた。

現実的に考えれば、7年も相手の情報を一切得ずに、毎月手紙を出し続けるなんてちょっと信じられない。マキさんの疑問は当然だ。その華恋の苦しみを、定番設定の当然の物ではなく、現実の苦悩として観客である我々が共感できるか。

「見ない、聞かない、調べない」華恋が自分に課した制限だ。ひかりは世間の有名人というわけでもないので「見ない、聞かない」は両親さえ協力してくれれば難しくない。

しかし「調べない」は難しい。インターネットのなかった時代ならとにかく、スマホで手のひらですぐに検索できる時代。「調べたい」という誘惑は常に自身を責め立てる。この苦悩は現代ならではの苦悩として、多くの人が共感できるのではないか。

本作は基本的にテレビ版を観ていてすら"人物に寄り添った感情移入"が非常に難しい作品だ。いきなり大きな感情のぶつかり合いがものすごい演出で始まる。なぜそう思うのかという流れの描写が一切ない。その大きな感情のセリフの中から、その理由を紐解いていく構成になっている。

その中で、唯一の"人物に寄り添った感情移入"ができる部分を「約束を信じられるかという不安」という点に置いた。華恋はその不安を乗り越え、最後にひかりとスタァライトすることができた。これによってアニメ版が補完される。

しかしながら、5歳の頃からの非常に強い自己暗示は、そのまま生き方を縛る呪いとなる。例えば別の話だが、強い愛による自己犠牲の物語に感動する。一方で紐男に貢ぎ続ける女性には「騙されている」と言う。強い思いによる非現実的な行動は感動を産む一方で、本人にとっては呪いにもなりうる。「運命」なのだから。

華恋が再生産してからの「言わなくてはならない最後のセリフ」は「ひかりちゃんに負けたくない」。冷静に考えると、華恋は他者からはそう意識して頑張っているように見えるはず。だからなぜこんな凡庸なセリフが最重要セリフなんだという疑問が出てくる。

なぜなら華恋はひかりを、お互いを高めあうという意味での「ライバル」として思考することすらできないくらい、強い自己暗示の呪いに囚われていたということだ。

「違うよ"運命"だよ」と「私にとって舞台はひかりちゃん」これらはテレビ版で最も重要なセリフだったと思う。このためにレヴュースタァライトはあったと言っても過言ではない。

それをひかりは「なにが『私にとって舞台はひかりちゃん』よ」言って嘆く。自身がかけてしまった呪いによって、死んでしまった華恋の呪いを解くために。

そう考えると、それ以前のレヴューで執拗に「ライバル」という言葉が出てきたことにも納得がいく。以前からライバルという言葉で表されていた真矢クロはとにかく、まひるがひかりと「ライバル」であることをやたら強調する展開には少し違和感があった。

しかしながらここにつなげる文脈であれば納得がいく。ふたかおも結局のところ、双葉が香子と対等の「ライバル」になるための話だ。

これは前回の感想でも書いたのだが、テレビ版で完全に完結した物語を補完したうえで、さらにそれを逆の視点から観ることで物語そのものからキャラクターを開放する。このような離れ業をやってしまうやってしまう制作陣は本当にすごいと思う。

劇場版エヴァも似たような構造で凄かったが、本作もテレビアニメの映画版として間違いなくエポックメイキングな傑作だと思う。