動物化するポストモダン

日常系への感動は、薬物の興奮と同じなのか。

自分のブログやTwitterを見ればわかるように、ここ2年くらいはやたらアニメを観るようになった。そう言っても別にアニメを歴史を辿ろうというわけでもなく、単に日々の疲れを癒すために観ているので、ジャンルは日常系アニメに偏っている。

自分はどのジャンルであってもハマるとその批評的なものも読みたくなる性格なのだが、その上で「日常系アニメ」というのは"けいおん!!"以降それなりにブームになったように思うのに、ほとんど"批評"が存在しないように見える。

いやそもそも日常系なんか話がないことが特徴なんだから、批評なんかできないでしょうと言われるとそれは一理ある。しかしながら物語のないアートやダンスには批評が存在するのは何故なのだろうか。アートやダンスにはそれなりに親しんできた自分には疑問がある。

そんなわけで最近は少しずつ90年代以降のオタク文化批評的なものの、現代でも参照の多いある種の古典とされる書籍を少しずつ読んでいる。本作を読んだのもその流れによる。本作の参考文献である「物語消費論」は既に読んでいる。


本書の主張の中心は「データベース消費」と「大きな非物語と小さな物語」である。データベースと大きな非物語は同意なので、「データベースと小さな物語」とも言える。

その内容そのものではないが、本書はこの手の本にしては重要な点が図示されていてかなりわかりやすい。その意味では「観光客の哲学」も図による説明が分かりやすかった。

自分自身は団塊ジュニアのここでいうオタク第二世代で、なおかつ90年代はそこまでオタク文化に触れていなかった。ここでの批評のメインとなっている90年代ノベルゲーについては、友人がハマっていたので存在は知っていたが、自分自身はやらなかった。その前提で雑多な感想を書いていく。


まず気になったのはエヴァ以降において、オリジナルの物語はデータベースの素材以上の意味を本当に失ったのかという点だった。これについては確かに二次創作や派生作品からキャラクターを知って、キャラクターにのみ"萌える"人はいただろう。

でも少なくともエヴァについては"オリジナルの物語"にそれ以上の意味はあったように思う。そうでなければこの2021年においてこれだけの意味のある"物語"をそれを参照して構築することはできなかっただろう。

またデータベース消費について、テーブルトークRPG(以下TRPG)の影響への指摘がほとんどないのは気になった。自分はTRPG黎明期のリアルタイム世代で、ファインティング・ファンタジー新和D&Dをやっていたので。

TRPGというのはまさに「データベース消費」を正しい遊び方としてシステム化したものだからだ。時代的にも80年代後半がブームの一つの頂点だったので影響がないわけがない。まあ物語消費論で語られてたからかもしれないが。

それでも「データベースと小さな物語」のモデルは現在でもそれなりに説得力はあるように見える。それはまさに「日常系」がそのモデルで構築されているように見えるからだ。その上で「小さな物語に対する感動は薬物による刺激と変わらない」という指摘はかなり厳しい。


そうだとすると現在でも有効な数少ない大きな物語「国家と家族」以外は無意味な物語なのだろうか。「国家」はカッコつきで語られざるを得ないとしても「家族」に反論するのは難しい。エヴァですら結局は「家族」を語ったくらいなのだから。

大きな物語の凋落の後、世界の意味を再建しようと試みて果たせず、結局はただ小さな感情移入を積み重ねるしかない」という認識は、現代においても強いリアリティを持つように思う。

自分にはそれに対して他人に共感可能な形で展開できる論理は今のところ見つからない。しかし他人に共感されない「小さな感情移入」のほうにこそ世界の意味があるのだと思う。

それはセカイ系のような個人とセカイを直接つなぐ大きな話とは異なる、もっと些細なレベルの話だと思っている。私はそれに共感を求めない。