梅津庸一展 ポリネーター

f:id:yamak:20210919131644j:plain
男性の問題については男性自身で考えるしかない。

いろんな作品があるが、インパクトがあるのはやはり自身の裸体をテーマにした作品だと思う。絵画もあるし、もっとストレートに全裸でいろんなことをする作品もある。

女性の裸体を男性が観る場合、エロスとどうしても結びついてしまう。だからそれに対するアンチテーゼ的な普通の女性の裸体をテーマにした作品もある。それにしたところでフェミニズムという強いコンテキストに紐づいたものとして観てしまう。

男性の裸体を男性が見る場合はどうだろうか。一つには鍛えられた肉体美のような、古代ギリシャから続く美しさの文脈があるだろう。ゲイカルチャー的な文脈もあると思う。美術に限らなければお笑い的な文脈もあるだろうし、単純に悲劇の文脈もある。

本展の裸体作品はそのような文脈に当てることがいずれも難しい。凄く鍛えられた肉体というわけでもなければ、ゲイカルチャー的な性的な主張もない。いい意味で笑える部分はあるけれど、お笑い的な文脈とはまた違う。あえて言うなら「そのまま」の体だ。

作家が同性愛者なのかによって作品の見方は変わってくる。しかし紙にインクで描いた落書き的な作品を見ると、描かれているのは少女であることがわかる。その辺の感覚は自分とあまり変わらないように見える。

しかし女性がこの作品を見た場合は、先に男性が女性の裸体を観たような感覚になり「そのまま」というニュートラルな視点を持つことは難しいのではないか。


話は変わるのだが「フェミニストは性差の平等を目指しているのに、男性が差別されることに無関心なのはけしからん」みたいな議論がある。

個人的にはフェミニストが女性のことしか考えないのは当たり前だし、それは全く悪いことではないと思っている。例えば床屋の業界団体があったとして、彼らはIT技術者の待遇の向上について関心があるだろうか。

もちろん自分たちの意見を一歩抽象化して、他者の不利益について考える人もいる。だからと言って全員が考えるわけでもないし、そこに期待するのも間違いだ。

男性は男性の問題をフェミニズムの対偶という立場から考えることが多いように思う。もちろん性差を体系化、運動化、学問化したのは女性なので、その考えに学ぶ部分はあるだろう。

とはいえ男性を世間に期待される文脈抜きの「そのまま」の人間として客観的に見ることができるのは、やはり男性自身だけなのではないか。フェミニズムから離れて、自分たちの言葉で考える必要があるのではないか。そんなことを本展の裸体から考えた。