Viva Video! 久保田成子展

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1960-70年代の現代美術の歴史と同時に、女性として生きることの影の部分も感じる展覧会だった。

1960年代のニューヨークが1950年以降の現代美術の歴史の中で最も先鋭的な時代と場所だったことは異論はないと思う。日本人女性美術家の海外での活躍という意味でも重要で、小野洋子草間彌生という日本を代表する世界的に有名な女性作家はいずれもこの時代にニューヨークにいる。

美術家という道を選べるのは男性でも、女性ならなおさらそれなりに恵まれた環境でないと進まないのも事実。叔母が現代舞踊家というのは十分にその環境にある。小野洋子ハイレッド・センターなどの交友関係を読んでいるだけでも面白い。既にナム・ジュン・パイクともこの頃出会っている。

このあたりの女性美術家はニューヨークに行って、そのまま活動拠点を海外にした作家が目立つのに対し、男性作家はあまりいないのは興味深い。もちろん行ったけど夢破れた人や、一時的に行ったがその後の活動拠点は日本にした人も多いだろう。それでも女性にとっては日本よりは活動しやすいという認識があったのかもしれない。

一方でニューヨークであっても女性は性的な部分を特徴にしないと認められなかったのではないかという部分はある。久保田がフルクサス時代で唯一公式に残っているパフォーマンスが、ヴァギナ・ペインティングであることについてはさすがに少し思う部分がある。本人も他のアーティストに勧められたからやったと公式には言っている。

しかし小野洋子も有名になったのは自身の服を他人に切り取らせるカット・ピースだった。カット・ピースが1964年、ヴァギナ・ペインティングが1965年だから、そこに対抗意識はあったのかもしれない。


その後フルクサスも下火になってパイクと親しくなってからはビデオにはまっていく。パイクのロジカルにビデオというメディアを突き詰める姿勢とは異なり、ポータブルビデオの軽やかさに可能性を見出していく部分は面白い。

ヨーロッパの一人旅の撮影なと、男性中心のコミュニティからの解放と一人の人間としての記録をポータブルビデオに感じたのではないか。

ビデオ彫刻もブラウン管を光学装置ととらえて、電子ビームの光を生かした抒情性が感じられる。また作家としてだけではなく、ビデオアートのキュレーターとしてビデオアートの紹介をする仕事に携わっていたのも、キャリアとして面白いと思う。


これで近年の作品を紹介して終わりでないこところが本展覧会の面白いところ。パイクが脳梗塞で倒れてしまうという残念な出来事があるが、病気になるのは誰でもある程度仕方がない。

その後のリハビリ施設の話が衝撃的で、看護師は何故か若い異性が付くことになっており、リハビリの度に胸を押し付けたりするらしい。それどこのエロゲという感じである。

パイクは現代美術の超有名人だから大金持ちだと思うので、スーパーセレブ用のリハビリ施設なのだと思う。異性と書いてあるので、女性には若い男性がつくのだろう。1990年代の話である。

そこに対して当然怒りと戸惑いを感じたことが書かれている。しかしながらそれを単純に怒りをぶつける形ではなく、セクシュアル・ヒーリングというポップであるが故に考えさせらるビデオアートという形にしてしまったところが,やはり只者ではないと思う。