"人への興味"という能力

コミュ障というのは"人への興味"という能力が低いことなのではないか。

自分は強度のコミュ障である。目的のある会話は問題なくできるのだが、雑談ができないタイプのコミュ障である。

問題意識は多少はあるので、よくある会話ノウハウ的な文章を読んだり、会話のうまい人の会話の仕方を聞いて分析したりしている。そこから出る結論は皆同じで、自分の話をするのではなく、他者の話を引き出せということに尽きる。

しかしそれが理屈ではわかっても難しいのはなぜか。他者の話を引き出すには、まず他者に質問しなくてはならない。その質問をするための「人への興味」というものが自身にないということが本質的な問題だと思う。

たとえば10分程度の時間なら強く意識して他者への質問を行うことはできる。自分が質問されたことをするなどのテクニックも使えるだろう。営業がアイスブレイクとして行うならこの方法もできるかもしれない。

しかし30分以上の直接的な利益のない雑談となると、本当に興味があるかどうかという本音に左右されるように思う。

会話の間が空いたときに何か相手に質問する事項がないかとは思うのだが、何一つ思いつかない。無理に質問を作って聞いても興味があるわけでもないので、それ以上の話が広がらない。

実際の会話だけでなくデジタルコミュニケーションも自分は同じだ。Twitterのフォローも最小限にしている。

実際の会話の場合はその場のメンバーの興味ある話題を選ぶが、Twitterはそのフィルターがない。話題でなく人そのものに興味がないと、その無秩序さは苦痛でしかない。

"人への興味"という能力は、いわゆるコミュニケーション本には後天的に身につく能力だと必ず書かれている。そう書かないと本が成り立たないからだ。

しかし"興味"というのは"興味を持て"と言われて無理やり持つことができても、それを継続させるのは難しい部分がある。能動的に興味を持ったことですら飽きてしまうことがあるくらいだ。

現代においては"コミュニケーション"は絶対的な正義なので、"人への興味"がない人間は人格的に問題があるということになっている。

しかし"たかだか人間"に対する興味の有無で人の価値は決まるのだろうか。