加藤泉ー寄生するプラモデル


自分にとっての現代美術というのはこういうものなのだと思った。

自分は一応それなりには現代美術というものに触れているので、現代美術とはどういうものであるべきかという一般論についてはわかっているつもりだ。その意味では現代美術であるためには強い社会に対する問題意識は必須条件だ。

だから特に同時代の作品であればどのような作品であっても、美術館における解説では社会的問題意識の文脈で読み解かれる。もちろん作家がそれを意図した作品であればそれは望ましい。

一方で自分にとっての現代美術というのは、テーマ性よりも表現形式だ。現代美術というのは否定の表現形式なのだと思う。音楽にも文学にもイラストにも映画にも舞台にもゲームにもならないもの。でも存在感だけが強くあるものというのが、仕方なく「現代美術」と呼ばれるのだと思っている。

加藤泉の作品自体は結構前から観たことがある。正直昔はあまり好きではなかったのだが、原美術館の個展で立体作品を観たときに、自分の中で彼の作っているのは地蔵なのだと思えてきて可愛く思えてきた。気持ち悪さが自然の木や石を使うことによる優しさで緩和された部分もある。

そんなわけで本展の作品なのだけれど、そもそも動物のプラモデルというのをほとんど観たことがない。箱の展示もあったのだが、教育用の教材のようだ。確かにそれであれば骨格モデルが多いのも納得がいく。さりげなくヴィンテージプラモデルと言われているが、流通量も多くなさそうで実際は相当な価格がするのではないだろうか。

動物のプラモデルと加藤泉の作品の相性はなぜか全く違和感がない。動物のプラモデルのキモ可愛さと加藤泉の作品の子供のキモ可愛さ。その2つは全く異なるものであるはずなのに、その位相があっているというか。その組み合わせがこれまで全く観たことのない存在感を産み出している。

本展には作家自身の言葉はあるけれども、第三者による解説はない。作家自身の言葉もよくある抽象的な詩のような言葉ではない。コロナで展覧会がなくなって暇になったので趣味のプラモデルを作っていたとかいう話である。作品についても、この組み合わせが何故いいのかは自分でもわからないと言っている。

だからこそその作品の「存在感」を過剰な文脈に載せることなく、素直に自分の中で感じることができる。これこそが自分にとっての現代美術のあるべき姿の一つの形なのだと思った。