後美術論

正しく批評だった。

批評の一つの方向として、多くの知識の引き出しの中から関連するであろう事象を見つけ出して、その関連を意味づけするという作業があると思う。そにためにはまず多くの知識が必要で、そこからさらにそれらを多面的に考察して関連を見つける能力が必要となる。

椹木さんは美術と音楽について当たり前だがものすごく詳しいので、その作業をひたすら行うのだが、あまりにも自分が知らないこと過ぎてまずはそこに圧倒される。

自分は音楽については全く知らなくて、ビートルズすらまともに聴いたことがない。だから書かれていることの妥当性について判断することができない。しかし最終章のPerfumeクラフトワークの話だけは両方多少は聴いていたのでなるほどという感じだった。「未来のミュージアム」をここまで悪意のある解釈ができるのもなかなかだ。


ここで書かれている「後美術」はかなりわかりにくい。ポイントとしては表現形式の「美術」や「音楽」ではなく、美術や音楽のオーディエンスの違いなのかと思った。

つまり現代美術においては「音を使った美術」というのは存在する。だから表現形式という意味では音楽を美術に含めることはできる。一方で「美術」というのはマーケットが限りなく少ない。そしてそれなりにお金や知識のある人しかターゲットにならない。

だから本当に社会の大勢に影響を与えようと思ったら「美術」の領域にいること自体が間違っている。思想としては「美術」に近くても、あくまで「音楽」の領域において仕掛けないといけない。そこをかなり意図的に行ったものが「後美術」なのではないかと解釈している。

ここに出てくる例は音楽フェスでアート作品を展示したりするようなきらきらコラボレーションではない。どちらかというとテロ的な社会意識の転換を狙ったものがほとんどである。

音楽については自分は全く詳しくない自分ですら、名前くらいは知っている有名ミュージシャンも本書では結構出てくる。つまり普通にエンターテイメントとして親しまれているということだろう。そこに対して美術という文脈から意味づけを行うという意味で、本書は正しく批評なのだと思う。