オウム真理教事件

本書によればオウム真理教は宗教という面からは真面目だったということだ。そもそも「真面目な宗教」とは何なのか。神や仏が存在するとか、ヨガで超能力が開発できるとかいうのは、日本における無宗教の人から見たらその時点で「真面目」ではない。

しかしそう言ってしまうと「真面目な宗教」というものは存在しなくなってしまう。そのため各自の信仰内容が現実的かどうかという点については疑問を挟まずに、その信仰内容に対して実直に取り組む集団であれば「真面目な宗教」とするという意味だ。

とはいえ最初に言ったように宗教というもの自体が多くの人にとっては存在自体が真面目でない。そのため社会にとっての評価基準としては必然的に信仰の内容はどうでもよくて、その活動結果が社会に良い影響か悪い影響かという基準で判断することになる。

その社会に対する影響というのは宗教の外から決められる論理である。その論理に対して妥協することは宗教としては「不真面目」ということになる。だから真面目であればあるほど、社会の論理から逸脱していく。いわゆる原理主義である。

これがイスラム教であれば、イスラム教の産まれた歴史的経緯から異教徒に対して攻撃的な部分はある。しかしオウム真理教においては社会変革も終末思想も異教徒への攻撃も教義の中で主体的ではなかった。ではなぜオウムはこれだけの事件を起こしたのか。その理由は以下のようなものだ。

1. 厳しい修行が日常化していることからの体育会系的論理
2. 修行の途中で死者が出たことを隠ぺいしたことからの開き直り
3. 被害妄想による過剰自己防衛
4. 倫理観を超えることが修行であるという独特の思想
5. 出家の際にはすべての財産を教団に寄進する故の資金力
6. 麻原がほとんど盲目だった故の部下が忖度しやすい状況
7. 信者の中に高学歴なエリートがいた故の実行力

麻原が絶対的な影響力があったのは確かだが、麻原一人が緻密に計画的に社会転覆を狙ったというわけではない。むしろ麻原の無計画で稚拙な考えが、上記の状況から拡大されて現実化されてしまったということである。これはもちろん麻原に責任がないということではない。


このようなことは二度と起きるべきない。その上でどのように「宗教」と付き合っていけばいいのだろうか。

もちろんそれは「宗教」に限ったことではない。オウムは元々は宗教ではなくヨガの教室だったが、ヨガは今でも人気だ。マインドフルネスや占い。お正月やクリスマスなどの宗教行事。アイドルやガチャも同じかもしれない。会社や国家ですらそう言えるかもしれない。

"サピエンス全史"によれば人間の他の動物との大きな違いは「虚構を信じられる」ことだそうだ。科学によって宗教という虚構が完全に否定されてしまった現代の日本であっても、人は何らかの虚構を信じることを求めてしまう。

自分は以下の3つが必要なのではないかと考える。

1. 社会的に影響のない虚構の優劣で争わない
2. 社会的に影響を与えるものは虚構の価値については問わず、社会的な利害でのみ判断する
3. 思想、身体、経済の逃げ道を用意しておく

特に3が重要なのではないかと考えている。オウムの出家という制度はこの思想、身体、経済の逃げ道を全て塞ぐものだった。もちろんそれがわかっているから悪意をもってそれらを奪おうとする人もいる。そこに対して社会的や法的な保護は必要だ。

"サピエンス全史"によると人間は虚構を信じることによって、宗教だけでなく、国家や科学も産み出すことができた。虚構には社会をいい意味で変える力もあると自分は信じている。