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シン・ゴジラ

この作品は「ポスト福一」ではない。

今「ゴジラ」をやるということ。その題材が与えられた時点で、監督がたとえ庵野監督でなくても、福島第一原子力発電所の事故という問題を避けて通ることはできないだろう。

たとえばゴジラでなくてガメラだったらそこまで意識する必要はないかもしれない。ただゴジラの場合、そもそも第一作から原子力がテーマだったわけで、外国人ならまだしも日本人の監督であれば、福一をどう扱うかは呪いのようなものだろう。

だから本作は福一を扱っているかどうかはそもそも問題ではなく、扱うのは当然という前提で「どう扱うか」が最初から焦点だった。

通常の作家であれば、現実の事象を自分の中で咀嚼して、その中で何らかの結論を出し、それを作品という形に落とし込む。それは非常にまっとうなやりかただし、結論の是非は人それぞれだろうが価値がある。

問題は、その方法はどうやってもイデオロギー的な結論を導かざるを得ないということである。あえて言うなら宮崎駿監督的なアプローチである。

それに対して庵野監督がとった方法は「サンプリング」なのではないかと思う。もちろん生物と原発は異なるが、多くの人がこれを見て「福一そのまんまだな」と思ったのではないだろうか。発生、対応、そして収束までそのまんまである。

「サンプリング」と「モチーフ」には大きな違いがあって、サンプリングは全体との整合性を無視しても元の形を残す。むしろ元の形と自分の創作の違和感を残したままにする。過去の作品との類似が少しでもあると途端にネットで叩かれる現代では、変に自分の解釈を加えるよりそのほうが安全という面もある。

そう考えると、石原さとみの違和感にも納得がいく。石原さとみのポジションは福一ではなかったし、アメリカが今作では典型的なヒールポジションだが、それは福一とは違う部分も多い。ここは物語のためにつけた部分ですよ、ということを明確化する必要があったのではと思う。

考えてみると庵野監督は昔から映像面でサンプリングの指摘が多かった。好きな作品のカットを咀嚼するのではなく、そのままあえて全く変えずに使用する。その意味ではこのアプローチは作家らしさなのかもしれない。

だからこの作品は「ポスト」福一ではない。過去にあったことを再度確認する、そこまでの作品だと思う。それが悪いわけではない。今もう一度確認してみて、あの時から何か変わったのだろうか。それを個人が考え直すのは決して無駄ではないはずだ。