ロン・ミュエク展

ひさしぶりに正しく現代美術を観た。森美術館。

リアリティのある人間の巨大な彫刻で有名な作家で、作品自体は何度か観たことがあるが、ここまでまとめて観たことはない。これまでもインパクトのある作品だとは思っていたが、今回は見方がかなり変わっていた。思ったことは2つある。

1つ目は本物の「ロボット」の未来である。

先日アシモフのファウンデーションシリーズを全巻読み終えた。アシモフの提唱した「ロボット」は最初の時点から見た目も人間とほぼ区別がつかないものだった。もちろんその前段階として機械の段階もあるのだけれど。

今アシモフを読むときにAIについて考えないわけにはいかないだろう。最近はあまり驚かなくもなってきていたが、先日のChatGPTのVoiceモードはさすがに驚いた。人間の会話と雰囲気は全く変わらない。

AIを雑談の相手として使う人は今では珍しくないそうだが、ここまで来てしまうとそれはハマる人は少なくないだろう。まあ自分は人と話すことがめんどくさいのでAIと話したいとも思わないのだけれど。

一方で物理的に人間と区別がつかないという点ではまだ時間がかかりそうだ。二足歩行で人間と同じように動作するロボットはまだ研究途上である。そしてその見た目については、精巧にできたロン・ミュエクの作品であっても人間ではないとすぐにわかる。

しかし大規模言語モデルのブレークスルーはこれまで機械学習の本流ではないとい言われていたところから発展し、力技でモデルを大きくすることで予想もできなかった知性に見えるものを獲得した。外見のブレークスルーもいつ来るかはわからない。

現在の大規模言語モデルの知性に対する比喩として「確率的オウム」という言い方がある。この写真の「チキン/マン」の製作年は2019年でまだChatGPTが発表される前のものだ。我々は今や鶏ならぬオウムと真剣に対話している。


2つ目はエンターテイメントとして消化されることに対する違和感である。

本展のラストはこの"マス"という巨大な頭蓋骨が積み重なる作品である。自分は昔行ったプノンペンのキリング・フィールドを思い出した。ここはポルポト政権下で虐殺された人の慰霊施設で、慰霊塔の中には殺された人たちの本物の頭蓋骨が積み重なっている。この展示が大量死のメタファーであることは明らかである。

しかしその場の雰囲気は厳粛さとは全く異なる空間だった。多くの人が大きな頭蓋骨と並んで嬉々として写真を撮っていた。これが現実の頭蓋骨と同じ大きさだったら、ここまで嬉々としていられるのだろうか。それを最初からわかってこの大きさなのだと思う。

キリング・フィールドに行った時、若い観光客のグループがガイドに対して、写真を撮るから絞首台のところで首を吊るポーズをしてくれと言っていた。あまりにも無神経で驚いた。そのときのことを思い出した。