- 作者: 斎藤環
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/05/01
- メディア: 文庫
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本自体は2000年の本で、もう18年前の本である。知ってはいたが、特に興味を持って読むほどでもなかったのだが、たまたま先日立ち読みして、本書がヘンリー・ダーガーと現代オタクとの共通点についてかなり詳細に書かれているのをしって非常に興味がわいた。
ヘンリー・ダーガーについては何度か展覧会で観ているが、これは"同人誌"なんだというのが自分の理解だった。彼が現代の日本にいたら、このような作品は残せなかったかもしれないが、同人作家としてそれなりに居場所を見つけて楽しく暮らせたのではないか。そんなことを思っていた。
ところが、当時自分が読んでいた文章の中にもその点の指摘があまりなく不思議に思っていたが、そもそもこの本で十分議論されていたからなのだと知った。
内容的には6章が本論だが、ラカンの精神分析の基礎知識がない自分にはなかなか理解が難しかった。自分なりに理解したこととしては以下になる。
欧米と日本では、物語を自分にとっての"現実"と認識させるために取る方法論が異なる
- 欧米: 現実といかに整合性が取れているかという理論とディテールを積み上げる
- 日本: 最も現実とはかけはなれたものを"性欲"によってまず信じさせる
日本の方法はわかりにくいが、キリスト教が近いのでと思う。キリスト教はまず"イエスが復活した"という最も現実からかけ離れたことを信じさせる。そこさえ信じてしまえばあとは何とでも整合性がとれてしまう。
日本のコンテンツに話を戻すと、そもそも現実からかけなれているのだから信じられるわけはない。そこで用いられるのが"性欲"なのである。
ただの絵であってもこれにエロスを感じられるということは、自分にとっては現実なのだという錯誤を生じさせるわけである。だからリアリティよりもキャラクターの魅力が優先される。
PS3時代以降のコンシューマーゲームにおいて全く同じ方法論がとられたことは予言的と言ってよい。欧米は物量とリアリティ、それが行きつく先のオープンワールドにより大きな支持を獲得した。
一方日本では、かつてのアニメーションと同じく予算の関係からそのような方法論は取れず、キャラクターによってもたらされる感情から現実感を獲得する方法が依然として試みられていたのではないかと思う。
これらは欧米では大きな支持は得られなかったが、アジアではそれなりに支持されたというのは面白い点だと思う。
また日本においては、漫画、アニメ以前から高度なコンテクストに基づく虚構に対する性欲が別の方向で受け入れられていたという点もあると思う。
"キャバクラ"や"お座敷遊び"がそうなのではないか。外国人にとって、娼婦ではない"キャバクラ遊び"は理解できないらしい。正直自分も"萌え"は理解できるが"キャバクラ"の何が楽しいのかは理解できない。
自分にとっては"萌え"は容易に理解できる一方で、欧米のアニメやゲームで女性キャラクターがなぜあれほど"萌えない"かのほうが不思議だった。欧米の女優はかわいいのに。その点を色々考えることができたのは大きかった。