浜口陽三銅版画展 幸せな地平線

家柄でもあり、運でもある。

ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションは今まで行ったことがなく、今回初めて行ってみた。浜口陽三のさくらんぼの版画自体は何度か観たことがあるように思っているが、それだけをまとめて観たことはなかった気がする。

最初に初期の1950年頃の作品を観たのだが、この時代にしては驚くほどスレていないと感じた。

1950年代というと日本は戦争からやっと復興し始めたころ。美術も戦争の傷跡、民主主義への希望、急速な価値観の転換への混乱と、エネルギーに溢れる一方どこか鬱々とした感じのものが多い印象。しかし浜口陽三の作品はそんなものとは全く無縁であった。

生涯を聞くとその理由がわかった。そもそも彼はヤマサ醤油創業家の三男であり、完全にいいところのボンボンである。ヤマサがコレクションを持っているのもそういう理由だ。

まあそもそも東京美術学校に入るのが人生の選択肢にあるのは家に金がないとありえない。昔の有名美術家はほぼ間違いなく良い家柄なのでそこはそういうものだろう。

ところが東京美術学校は二年で退学してしまい、パリに行ってしまう。ここで美術家として多少は活動していたようだが、世界中に旅行に行ったりしてフラフラしていたらしい。当時は完全に名家の道楽息子としか世間では見られていなかっただろう。

ところが、第二次大戦が始まってしまい日本に戻ることになる。名家の道楽息子でも遊んで暮らすというわけにもいかず、フランス語の通訳として仏領インドシナに派遣されたものの、マラリアにかかって帰国。それなりに苦労されたようである。

そして戦後の1950年頃に再度版画の制作をはじめ、1952年にふたたびパリへ。自分が最初に観たのはこのころの作品である。

戦前に世界をいろいろ廻っていることもあり、日本の戦争に対しても達観した冷めた視点で見ていたのだろう。だから戦後の陰鬱さとは無縁の作品なのではないか。戦争でフランスから戻り、戦後に再度渡仏した藤田嗣治も同じような部分はある。

彼がなぜメゾチントという当時は既にほとんど使われていなかったらしい版画技法に可能性を感じたのかはよくわからない。これで絶対行けるという確信があったとはとても思えない。

ただ結果としてそれが画商の目に留まって、独自の作風も生まれ、カラーメゾチントという技法を産むことができた。かつての道楽息子がやっと美術家として名声を獲得したと言えるのは40代になってのことだった。

会場で流されていたビデオのインタビューで「私は人生は運だと思っている」と言われていた。良い家柄に産まれることも運と言えばそうだが、家柄の力は否定できないだろう。

しかしながら、家柄に頼った道楽息子が世界的な美術家になったのは、もちろん実力もあるだろうが運なのだろう。遅咲きの美術家の人生というのはときに作品以上に興味深い。