アートに資本主義批判ができるのか
金持ちによって支えられるアートに資本主義批判ができるのか。この点は自分も常に感じていた部分であり、ある種の自己矛盾とも言えるが、この点に対して素直に語っていた点は良かったと思う。
舞台芸術や複製を前提とした芸術の場合は、単価を下げて大量に複製したりすることで一般大衆も共感する価値に対してお金を払うことができる。基本1点物の美術品の場合はそれが本質的に難しい。
金持ちが資本主義批判の作品を買うことにより、思想的免罪符として現代アートが利用されているという点は無視できないと思う。
ただ実際そのような超高額で取引されるのは極一部でしかなく、99.99999%の現代アートは犬も食わない値段とされているのだろう。金持ちになるために現代美術家になろうとする人などいない。
金持ちだから無駄なものに金をかけられるので、現代アートの収集家は金持ちが多い。面白いのは、それを現代アートを観ればビジネスに役立って金持ちになれると勘違いする人が実際に出てきていることだと思う。
自分はソシャゲと現代アートというのは非常に似ていると思っている。いずれも他者から見たら全く無価値なものに希少性だけでお金をつぎ込む人がいる。現代アートを買わずに鑑賞だけする人はソシャゲの無課金勢だ。
とはいえ無課金勢がいないと課金勢の承認欲求は満たされないし、ゲーム自体が面白かったり、キャラに魅力がないとソシャゲも続かない。現代アートなんてその程度のものと考えると気が楽になるのではないだろうか。
「現代アートがわからない」は本当か
"現代アートがわからない"とはよく言われる。また特に社会的に賛否が多い現代アート作品に対する反応にたいして「欧米は現代アートに理解があるのに日本では理解がない」と言った文脈で語られることが多い。これは本当にそうなのか以前から疑問に思っていた。
例えば「表現の不自由展における慰安婦像と同じ彫刻」に不快感を表明する人は、"わからない"から不快なのだろうか。自分はそうとは思えない。不快感を表明する人は「慰安婦像と同じ彫刻」が何を意味するかは正しく理解している。正しく理解しているこそ不快感を表明するのだ。
その不快感の表明方法には問題があった。しかし文脈を理解していなければ、単なる少女が座っている彫刻でしかない。ここまで不快になることはなかっただろう。それは"現代アートがわからない"こととは明確に異なる。
もちろん多くの人は"美術史"という文脈は詳しくないから、それを前提とした作品を理解するのは難しい。特定の地域の政治や歴史を前提とした作品もそうかもしれない。しかしそれは文学も音楽も映画も同じだ。現代アートだけに特別なものは存在しない。
ただ"わからないかどうか"と積極的に観たいかというのは全く別問題だ。また不快なものであっても、一旦落ち着いて何故不快なのか考えることができるか、不快感を示すために適切な方法を取ることができるかも別問題だ。
一般人は"現代アートがわからない"から優秀な俺たちの現代アートを理解できないという考えそのものが高慢なのではないかと思う。
現代アートと文学は何が違うのか
現代アートを構成する3つの観点と9つの動機の話は面白かった。一方でそれはなぜ現代アートでなければならないのかという疑問は残った。
インパクト、コンセプト、レイヤーという3つの観点にしたところで、別に現代アートに限ったものでは全くない。映画、小説、音楽など他の芸術においても全く同じ観点で観ることができる。
"現代アート"という言葉は"文学"と似たような意味合いの言葉に思う。それがアートなのか文学なのかを決めるのは、文章であるか、絵画や彫刻やインスタレーションであるかという外見的な表現形式の違いに過ぎない。
"現代アート"の特殊なのは表現形式において"既存の形式のどれに入れるにも難しい"という"その他"を受け入れられるという点だけではないかと思う。
その意味において"現代アート"の作家が他の形式の表現を行う作家に比べて特別に高い価値があるとも思えない。