マーク・マンダースの不在

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彫刻を作っている何かの不在を作り出す展覧会。東京都現代美術館

現代彫刻において重要なのは素材と形状だと思う。まあ現代でなくても彫刻はそうなのだけれど、素材と形状に対する制約が現代においては飛躍的に解放されたからこそ、なぜその素材であるかということが改めて問われることになる。

その中でフェイクの素材による表現というのも出てくる。通常であればその素材による長期的な保存に耐えうる彫刻ができないという思い込みを利用し、全く別の素材で彫刻を作成して、別の素材に似せることにより異化効果を産み出す方法である。

本展の作品は粘土のように見える部分は実際はブロンズに色を塗っただけである。実際に粘土に日々触れている人は違いがわかるのだろうが、自分のような素人には全く区別がつかない。もちろんその技術も凄いのだが、それをもって何が作られたかである。

未完成の美というのはあると思う。制作の途中であるが故のモノと最終形態の中間であるが故の違和感から来る面白さ。この方法も既にいろいろ試されていると思う。自分が最初に思いついたのは1970年大阪万博のせんい館だった。ただ、本当に製作途中のままのものを作品と言われても、習作としか現代では言われないだろう。

そこにもう一つの仕掛けが必要になる。それが先ほど話したフェイクの素材による固定化と、それによって可能となった巨大化である。普通の塑像のサイズであればだれも気に留めないだろうが、このサイズになると、これを作っているかもしれない「巨人」が感覚の中に生きて現れてくる。

巨人の制作現場を不在のうちにこっそり覗いているような。見つかったらただでは済まないような不安。そもそも彼らにとって人間とは何なのか。まあ美術品にするくらいなら進撃の巨人のように人を食うわけでないだろう。いや人間だって食べてしまう牛や豚を彫刻にすることもあるのだ。

本当にそんなことを作家が考えているのかはよくわからない。「建物としての自画像」と本人は言っているらしいが正直よくわからない。でもそういう感覚こそが、今アートが提示できるものであることは確かだろう。