澤田知子 狐の嫁いり

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この美術展の全ての写真は同じ情報量しかない。東京都写真美術館

澤田知子と言えばセルフポートレイトの写真ではあるが、他の写真もそれなりにあったような気がする。しかしこの展覧会は見事にセルフポートレートのみの展覧会で圧巻である。

話は変わるが、先日会社でセクシャルハラスメントについての研修を受けた。別に自分が何かやらかしたというわけではなく、全員必須のビデオ研修である。

個人的に興味深かったのが「相手が嫌がっていなければいいのでは」という話に対し、「嫌がっているかどうかというのはわからない。だから外見等に対する言及を全て行うべきではない」という話である。

一方で男性上司が部下の女性に「服装が職場にふさわしくない」というのは問題ないらしい。これも主観によるような気がするのだが、今一つ基準がよくわからない。

何が言いたいかというと、我々は外見からの評価を一切遮断し、その人の生み出す結果からのみ人を判断すべきとされていることだ。これは異性だろうと同性だろうと変わらない。

この展覧会は「澤田知子」という一人の人間が、外見だけが変わった状態の写真数百点で構成されている。外見というのは本人の情報に一切付加価値をもたらさないという前提で我々は判断しなくてはならない。それゆえこの展覧会の全ての写真には同じ情報量しかないという結論になる。


念のため言っておくと、自分は女性が業務において外見で判断されることがあることに問題がないと言いたいわけではない。男性だって外見で「仕事ができそう」という判断になることもある。

しかし「人は見た目が9割」なんて本が売れたように、そんなことはみんな建前だとわかっている。仕事も恋愛もそうだ。

問題は「本音では違うとみんな思っている」と思ってした発言が、建前の文脈に露わにされるときだ。その本音と建前の文脈は非常に主観的であいまいだ。「空気を読む」しかない。

自分が懸念しているのは、その本音と建前の乖離がより大きくなっているように見えることだ。例えば建前の文脈においては、現実の女性に対して「かわいい」と言うことは許されない。だから自分は非現実の女性に対してのみ「かわいい」と言うことにしている。

澤田知子の多種多様なポートレイトは「本当にそこに情報量の違いはないのですか」と突きつけるのだ。