蜷川実花 瞬く光の庭

蜷川実花のいつもの花写真だが、それこそがこの展覧会の価値だった。

花の写真というのは「現代美術」という文脈に置かれてしまうと途端に難しくなってしまう。「現代美術」の展覧会において普通に綺麗な花の写真があったら、これは何かの罠だと思うのではないだろうか。

この花の咲いている土地には歴史的に残酷な事件があったのかもしれない。この花はそもそも現実に存在しないのでは。そんなことをまずは疑うように「現代美術」は訓練されている。

それは花の写真をただ見ただけだと普通わからない。作品内にはヒントすらないことも普通にある。そのために解説が書かれていて、そこで「答え合わせ」をする。そういうゲームが「現代美術」である。


本展には作品のキャプションがない。キャプションがない展覧会自体は珍しくもないが、通常は別途作品リストがあってそこには作品タイトルや制作年が書かれている。本作にはそれもない。撮影可能かどうかの案内があるだけである

作品は彼女が2021年から2022年に撮られた、人によって植えられた花の写真で、展示も時系列順であることは明示されている。それ以上の情報は何もない。

対象が「綺麗だが珍しくない花」であることは重要である。「人」であったなら、それがたとえ市井の無名な人であったとしても、見るほうはそこに意味を求めてしまう。これはいつの時代の、どこの人なのか。その時点で「情報」を求めてしまう。

最近の作品であることも重要である。古い作品であればその時代の文脈が必要になってくる。過去に作家を有名にした作品であればなおさらだ。コロナ禍という文脈はあるが、ない作品がそもそも作れない。

この展覧会で感じられるのは蜷川実花のたぐいまれない美的センスであり、それ以外は何もない。「現代美術」という文脈の深い批評をするにも「最近撮った綺麗な花」には何の手掛かりもない。

しかしそれこそが「現代美術ゲーム」に少し疲れてしまった自分には新鮮だった。