劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』

誰かに選ばれないといけないのか。

かなり昔の話だが精神的にかなり参っていた時があって、その時は心理カウンセラーの相談サイトをよく見ていた。たくさん見て気が付いたのは、人は「自分に選択肢がない」と思うことに対して強いストレスを感じるということだ。

よくある回答の一つとして、大きな問題はとりあえず置いておいて、身の回りの小さなことで自分が変えられることをやってみなさいというのがある。これは「自分に選択肢がある」という認識を取り戻すための試みなのだと思っている。

しかしながら「私には選択肢がない」という認識は、単に本人の認識の問題だけではない。それは現実的な強い制約に基づいていることが多い。お金も仕事もないという人に「あなたは何でもできる」というのは無責任でしかない。


"輪るピングドラム"はシンプルな物語だということに映画版で気が付いた。彼らの大きな制約は「親」である。子供にとっての親の制約はあまりにも大きすぎる。「きっと何物にもなれない」のはその制約のせいである。

その制約を乗り越えるために必要なものは2つ提示されている。一つは「運命の乗り換え」であり、もう一つは「誰かに選ばれる」ことである。

「運命の乗り換え」のためには、運命を乗り換えができる他者に選ばれる必要がある。結局のところ「誰かに選ばれる」ことが必要になる。

これはかなり残酷ではないだろうか。「誰かに選ばれる」ことは自身で選択できない。結局のところ「自分に選択肢がない」ことは変わらない。自身にできることは、強い制約以外の関係性を持つことで「誰かに選ばれる」可能性を作っておくくらいしかない。

これを希望と見るか絶望と見るかは人によって変わるだろう。自分は「誰かに選ばれる」ことに対して希望を感じることはなくなってしまった。