目的が正しい時は理論を疑え

正しい目的について書かれている文章こそ、理論が正しいかどうかを検証すべきではないかという話です。

ここでは2つのパターンを想定しています。1つはある目的が正しいということを主張するための文章。もう一つは目的の正しさは自明のものとして、その達成のためにはどのような方法を取るべきかという文章です。

目的というのはわかりやすく、感情に左右されることが多いように思います。一方でその正しさを主張する根拠や、達成するための方法は理論に基づくものです。それはきちんと書かれているものほどわかりにくい。

そのわかりにくい理論に対しては、目的に共感できるかどうかで、その理論が正しいと思ってしまうバイアスが誰でもかかりやすくなる。そのバイアスを意識し、共感できる目的こそ、理論については正しさを疑うことが必要ではないかと思います。

問題はその「理論の誤り」を指摘したときに、目的の正しさにも反対していると思う人がいることです。とくにその目的が、社会的に当然支持される価値観とされている場合に、理論の誤りの指摘そのものが反社会的であるという認識をされることがあります。

しかしながらそのようなことはない。特に誤った理論に基づく方法を取った場合は、正しいことをやった達成感だけで満足し、目的に対してはほとんど効果がないということになりがちです。

世間は正しい目的とそれへの共感に溢れています。共感できない目的についての理論を疑うことは誰でもできます。共感できる目的こそ理論を疑うこと。これがリテラシーというものではないかと思います。