シンパシーとエンパシーを分ける意味はあるのか
本書の特徴はシンパシーとエンパシーをわけて考える部分だとは思う。エンパシーとは共感できなくてもよい相手の考え方を理解し、その考え方で考えてみることだとされている。
ちょっと話はそれるが、自分は仕事でよく「同意できるかどうかは別として理解はできたか」という聞き方をする。これは上記のエンパシーの話と同意と共感の点で似ている。
この考え方に当てはめると、他者に対するエンパシーは理解、共感、行動の3段階に分けられる。本書の第一章のエンパシーの分類とも比べてみる。
理解: 相手の状況を知る事。コグニティブ エンパシー
共感: 理解した状況に対して共感する事。エモーショナル エンパシー = シンパシー
行動: 共感に基づいて行動を起こす事。コンパッショネント エンパシー
こうしてみると本書の分類ともほぼ一致している。今後は理解、共感、行動の呼び方をここでは用いる。コグニティブとか言われてもピンと来ないので。
上記の書き方で気が付くと思うが、下位の状態は上位の状態を前提としている。共感については単に相手が嬉しそうだから嬉しくなる、悲しそうだから悲しくなるといった、理解とは異なる直接的な感情共有はあると思う。
しかし本書が想定しているのはそういう話でない。自身とは異なる社会的状況の相手に対するエンパシーが問題になっているので、共感のためには、その状況の理解がどうしても必要である。
また行動というのは理解した相手の状況を改善するための行動だが、全く共感できない相手に対して行動するということは難しいのではないだろうか。
何が言いたいかと言うと、エンパシーを理解と位置付け、最終的に求めるのが行動だとするなら、行動はエンパシーとシンパシーが両方揃った段階でのみ行われるので、それは分離できないということである。
共感や行動を無理強いしない
上記の3段階の話で上位の段階に達したから必ず次の段階に進むかというと、そうではない場合は普通にある。
理解と共感の間では、相手の立場で行動すると、自身の利益を侵害する場合は共感は難しいのが普通だろう。共感と行動の間には、他の施策との優先度の問題や、単に行動するのがめんどくさいというのも十分な理由である。
本書では政治家に対する批判が随所に出てくるが、政治家というのは行動でしか評価されない。行動が自身の望む結果でなかったからと言って、必ずしも理解や共感がなかったとは言い切れない。共感はあったかもしれないが、行動しなかった可能性もある。
最終的に求めたいのは行動である。しかしまず理解なくしては次につながらないのも事実である。重要なのはそこで無理に共感や行動を求めないことではないだろうか。
何かを理解するためにはまず興味を持つ必要がある。そしてそれに基づいて理解するというだけで大変なストレスである。そこで共感が得られなくても、理解を示したこと自体に感謝すべきではないだろうか。
「本当のことを話せばわかり合える」の気持ち悪さ
本書の第二章でプリズンサークルという映画の話が出てくる。この話は本書で何度も引用される話で、受刑者同士がロールプレイなどの活動を経ながら自身の気持ちを話すことにより、他者へのエンパシーを獲得していくという話である。
犯罪者がエンパシーを獲得することによって、更生して再犯を防げるのであればそれ自体は素晴らしい事である。しかしながら自分は本章に対して何か気持ち悪さを感じた。
それは「本当のことを話せば、相手を必ず理解可能である」という認識に基づいていることだと思う。それは逆に言うと自分が理解できない考えなのは、相手が本当のことを話していないからだという認識である。
その結果何が起きるかと言うと自分が理解可能なことを話すまで「本当のこと」を話すよう強要される。これは一般社会においては尋問のように行われるわけではない。
しかしながら「他人に理解される回答をしなくてはならない」という強いバイアスとなる。これは「自身が理解できない考えであっても受け入れる」という考えとは真逆の考え方である。
「本当のことを話して分かり合う」という話はカタルシスを得ることが容易である。自分自身もそのような話を楽しんだりしている。しかし「わからない」ということを受け入れることも重要なのではないだろうか。
想像ではなく事実を知る
細かいことかもしれないが、本書でも「相手のことを想像する」という言い方が良く使われる。しかし「想像する」ことで正しく相手のことがわかるのだろうか。
想像と言われても元の情報のないものは想像できない。仮に想像してもその結果が事実と異なる場合がむしろ多いのではないだろうか。
自分が身近な事実として知っているものを、社会的な距離が遠い人が想像できないことを責めても、それは無理なのではないだろうか。
実際のところこの文脈における「想像する」とは、「理解と共感」をまとめて言っているだけなのではないだろうか。そうだとするとそれは「想像」とはあまり関係ない。むしろ興味を持ち、知識を得て、理解することが重要である。
アナーキズムに対する説明不足
これはこれまで書いてきた論理的な問題と言うより感想なのだが、エンパシーについてはその歴史的経緯を含めてかなり厳密にその定義を示しているのに対し、アナーキズムについてはかなりぼんやりしている。
無政府主義とは書かれているものの、それは文字だけ見てもかなりあいまいな定義だ。アナーキストのXXという話は数多く出てくるが、どのような基準でそこに分類されるのかもわからない。
「アナーキズムはXXではない」という記載も数多く見受けられるが、否定の定義だけを並べても輪郭はわからないし「アナーキズムは民主主義」みたいな極端な定義を突然入れられても理解できない。
アナーキズムをエンパシーに加えたもう一つの本書に軸にしたいのであれば、もう少し丁寧に議論を進めるべきだったのではないだろうか。