コミュニケーション不全症候群

1991年の本だが30年後の今読んでも十分に有効な内容だと思う。

"中島梓"="栗本薫"の著書

題名を見ても「よくあるその手の本ね」としか思わないだろう。しかしながら著者は"中島梓"である。この本は他の本で引用されていて興味を持って読んだのだが、まさかあの"中島梓"とは思わず別人だと思っていたくらいだ。そう"栗本薫"と同一人物のあの"中島梓"なのである。

いや栗本薫も知らないと言われると困ってしまうのだが、代表作はグインサーガで100巻で完結と言っていたら、100巻を超えてしまい、作家が56歳という若さで亡くなってしまい、作家自らが書いたものは130巻で今なお他の著者によって続きが書かれている。

実は自分はグインサーガは高校の頃にずっと読んでいたが、30巻くらいで読むのをやめてしまった。伊集院大介もすこしは読んでいた気がする。魔界水滸伝は数巻しか読まなかったような。そういう意味で自分にとっては学生"おたく"時代を象徴する作家だったりする。

そして栗本薫には現代のBLに繋がるJUNEの創始者的という面もあり、実はこちらのほうがこの本では重要である。ただこれについては自分は全く詳しくないので詳しい人に任せる。

愛と自己否定

この本は確かに"コミュニケーション不全症候群"と著者が名づける事象に対して、いわゆる社会学的、精神分析的な視点で書かれてはいる。しかしながらその一方で強い"愛と自己否定"に基づいており、そのせいで論旨がわかりにくなっている部分がある。

"愛と自己否定"とは何か。この本は"コミュニケーション不全"の表面化の事例として、男性の"おたく"、女性の"拒食症"と"JUNE"に注目する。元々自身が拒食症だったことから、それについての本を書こうと思い、他の問題も含めた社会全体の原因として"コミュニケーション不全症候群"に辿りついたということらしい。

先ほど栗本薫は"おたく"時代の象徴であり、JUNEの創始者であると書いた。だから当然自身の作品とファンに強い愛がある。しかしながら、それは"コミュニケーション不全"の一つの表れであり、それは直すべき病である。そこに強い二律相反の悩みを感じる。

また宮崎勉事件の影響も非常に強い。宮崎勉は1989年に逮捕され、本書の発行が1991年である。本書でもたびたびこの事件に触れ、"コミュニケーション不全"の最悪の発露の形として言及している。その非難の過程で最も問題視された"おたく文化"の一人の担い手としての責任という意味もあるだろう。

それはエヴァ庵野監督がやったことに似ているかもしれない。本作の一つの面として、庵野監督の特撮やアニメについての強い愛の一方で、自身の作品を同じように愛する観客への否定が挙げられる。宮崎監督も富野監督も同時代のアニメ作家はみな同じような問題意識による発言が多い。

恋愛結婚時代の歪み

ここからはこの本自体のことというより、この本を読んでの自身の考えについて書いていく。

この本は社会全体の話と、"おたく、JUNE、拒食症"という個別の事象でありながら、実は関係がありそうな個別の話の考察が錯綜している。社会全体の話はひとまずおいておいて、まずは個別の事象に共通した話だけで考えるほうがわかりやすそうである、

それは"他者から認められることが最重要の価値となった時代"に対する、反抗と過剰適応という歪みの表れであるというのが本書の主張であり、おおむね同意する。しかし"他者から認められることが重要な価値である"ことは、1980年代以降に特有の問題なのだろうか。

ある程度経営者と労働者の分離が進んだ近代以降においては、労働者として経営者から認められることが重要であり、そこにおける強い競争は常に起きていた。そこに対する反抗、過剰適応は1980年代以前は別の形で発生していたように思う。それは共産党活動、学生運動、アングラ映画、カストリ雑誌であったりしただろう。

では"1980年代以降に特有の変化"でかつ"おたく、JUNE、拒食症"という個別の事象を引き起こしたのは何だったのか。この本にも書いてあるが、特に"恋愛結婚観の変化"が大きかったのではないかと思う。

一つは見合い結婚が1990年にはほぼ1割まで減ったこと、そしてもう一つはバブル期の過剰な恋愛ブームによると思う。それまで収入という人質を取られて選択権が少なかった女性が社会進出によって選択権を得たこと自体は良いことだと思う。しかしその競争を過剰に煽ることによって消費が促された。

他者のなかでも特に異性に認められることが重要な価値であるという価値観が、1980年代に急激に強くなったことに対する反抗と過剰適応が、まさに"おたく、JUNE、拒食症"だったのだと思う。

当時のおたくとJUNEとは意味合いが異なるが、現代における男性にとっての百合と女性にとってのBLがなぜ異性を排除するか。それも"異性との恋愛"の強い競争原理に対する、ある種の反抗なのだと思っている。

結果としては1980年頃から急速に未婚化が進みまだ止まっていない。自由競争には格差という代償がつきものなのだ。
第1部 少子化対策の現状(第1章 3): 子ども・子育て本部 - 内閣府

ネット時代の他者

本書の元々の話は"自分以外の他者を人間として認識することができない"人が増えたように思うというものだった。本書の結論は"認識するように意識しよう"という正論ではあるがあまりにもそのまんまのものとなっている。

単純に"おたくを卒業して、恋愛結婚して子供を作りなさい"と言えればどんなに楽だったことか。しかしそう単純に言えないことに本書の価値があると思う。


ではかつてはリュックサックに、今ではTwitterに自分の好きを詰め込んだ現代の男女のオタクは、他者を人間として認識するにはどうしたらいいのだろうか。

ネットでの面白い現象として、いわゆるジャニオタの女性の強いお気持ち表明に対してオタク男性が強い共感を示すことがある。もちろん男性は別にジャニーズが好きなわけではない。それでも"あなたが何かを強く好きであること"に対して共感するのだ。

自分自身好きなものが非常に偏っており、他人や世間と話を合わせようという意思は全くない。でも何かを好きであるという他人にはそのことによって人間らしさを感じる。

相手の好きなことそのものに理解はできなくても、相手が何かを好きであること自体には共感できる。そのことによって、相手を自身と同じレベルで考えることはできるのではないかと思っている。

むしろそこにしかネット時代の人間としての他者はないのではないだろうか。