A3

法で裁くとは何であるかについて考えるところがあった。

この本の論点は少しわかりにくい。論点は2つあって関連するものではあるが、正確には別のものである。

1. 麻原の裁判中時点の精神状態は、裁判を受けることができる状態として適切か
2. 麻原がオウム真理教事件を起こしたのは何故か

ややこしいのは1は"オウム真理教事件発生当時"の精神状態は論点ではないということ。この時点は問題はなく責任能力はあると考えているという話は何度も強調されている。

一方で裁判中の状態は著者が実際に傍聴したり、各種の情報から考えるに明確に適切ではない。そのため一度裁判を中断し、適切な治療を行ってから裁判を継続すべきである。しかしながらその議論すらも封殺されるのはおかしいというのが1におけるポイントである。

自分も当時「精神鑑定」が問題になっているらしいということの認識はあったが、それはあくまで犯行当時に責任能力があるかどうかの話だと思っていた。ほとんどの人はそうなのではないだろうか。

この本の記載をそのまま受け取るならば、確かに自分も「一度裁判を中断し、適切な治療を行ってから裁判を継続すべき」という主張には同意できる。詐病とみるのはかなり無理がある。

一方で思うのは、仮に治療によって回復しなかった場合、事件当時は責任能力があることが明確であったにも関わらず、裁判を行うことができないとう状態がずっと続くことになる。それでいいのかという点だと思う。もちろん著者はそれが正しい法治国家の在り方であるというだろう。しかしそれに納得感があるかというと自分は難しい。


これは完全に自分の妄想なのだけれど、麻原は自身の精神を自身の力で破壊したのではないだろうか。つまり精神の自殺である。これは詐病ではない。詐病は自身の意識が正常にある状態で、病気であることを演じることだ。だから自身が正常に戻ろうと思えば戻ることができる。精神の自殺は戻ることはできない。一方通行の死である。

そんなことは常識ではできない。しかしながら麻原はヨガについてきちんとやっていたとのことだし、それは事実なのだろう。瞑想は自分も少しやっていたことがあるが、基本的には自身の精神を自身で制御する方法である。この達人であれば、自身の精神を安定させることと逆に、自身の精神を崩壊させることも可能なのではないか。

仮にもしそんなことが可能であれば、自身を犠牲にして裁判という仕組みを無意味にすることができてしまう。しかし麻原のようにどうやっても死刑であることが確実であれば、そのようなことを試みても不思議ではない。


2.の「麻原がオウム真理教事件を起こしたのは何故か」に対する本書の周囲の忖度仮説はある程度はあるだろうと思う。どのような独裁者であっても、全てを指示し、全てを知ることは不可能なので、多かれ少なかれ周囲の影響は受ける。

一方でだから本人の意志ではない、ましてや責任がないというのはかなり無理があるだろう。会社の不正等であれば、公になっていないので本当に知らなかったということもありうる。また名目上の地位は高いが実質的な権限はないというケースもありうる。

オウムにおける麻原はそのどちらにも該当しない。もちろんほとんど目が見えないという点で自身の情報収集ができないという点はあるが、自身の意志に沿わない側近を排除する権限は十分あったように思われる。

犯罪者がこういういい面もあったという話はそれはあるだろう。実際自身の周囲でも、あの人がそんなことをやっていたとはという事例は少ないがある。自分自身も他者からみたらそういう部分もあるだろう。結局罪というのは過去がどうあれ「やったこと」で裁くしかないのではと思う。


今更オウムではあるが、何故か今まで野放しだった統一教会が今更追及されているように、宗教は今も周りに根を深く下ろしている。その意味で興味深かった。