暇と退屈の論理学

日常系とは理想の退屈状態である。

子供のいる世帯と、独身者のいる世帯の一番の違いは何か。それは独身者が暇だということだと思う。もちろん独身であっても働かなくてはならないけど、子供のいる世帯の全ての生活が子供中心になる生活を聞いていると、やはり独身者は暇だと思う。

この良し悪しを言いたいわけではない。とはいえ40代くらいになると、その"暇"の意味について考えることは独身者ならだれでもあるのではないだろうか。

そんなわけで本書である。本書は古今東西の哲学者から暇と退屈とはなにかということを引っ張ってきて独自の論理を組み立てる。内容については説明しても仕方ないのでせずに、読んでいることを前提に疑問点を書く。

浪費と消費は区別できるのか

一番気になったのは"浪費と消費は区別できるのだろうか"という点だった。この区別は本書において非常に大事で、最終章の結論3つのうちの一つが"消費をせずに浪費しろ"なくらいだ。

もちろんここでいう"浪費"と"消費"は本書における定義としては厳密に区別されている。

"浪費"というのは"贅沢"と同義で、必要なものをただ受け取るのではなく、それを楽しむことだとされている。受け取りには限界があるともされている。食事を楽しむというのが例として挙げられている。

一方で"消費"は観念の追求であり、そこには終わりがない。終わりがないから"消費"しつづけても永遠に満足することはない。流行を追うようなことはわかりやすいだろう。

ここから"浪費"は自身の環世界に他を受け入れるための余裕に、"消費"は環世界に閉じこもるとらわれに繋がるとされている。


しかしここからわからなくなってくる。楽しむためには訓練が必要な場合があるという話がでてくる。例えば芸術や書籍のようなものがそうだ。コンテキストと言い換えてもいい。これそのものは確かだ。

しかしコンテキストというのは結局のところ観念である。よくある話として、Aという作品はよくわからなかった、面白くないという感想に対して、それはBというコンテキストを知らないからである。いやCも必要だ。このように無限の観念の消費を強要される。

それは芸術だけではない。哲学など最も強い観念の消費なのではないか。そこに「終わり」はあるのだろうか。哲学だけではなく、人文系の学問など全て同じではないだろうか。

結局のところ消費こそが浪費なのだと思う。その2つは切り離すことはできない。

"とらわれ状態"に陥ってはいけないのか

本書においては最後にハイデガーの退屈の第一、第二、第三形式というものが出てくる。最終的に第一形式は第三形式と同じということになる。結局のところ大きくわけて2つの状態に分けられる。第X形式という言い方はわかりにくいので別の名前をつけてみる。

  • 退屈状態: 第二形式 贅沢を楽しむ 他者を受け入れる やるべきことはあいまい
  • とらわれ状態: 第一=第三形式 仕事などに集中 他者に不寛容 やるべきことが明確

とらわれ状態には余裕がなくなる問題はある。一方であえてとらわれることによってしか達成できない価値もある。贅沢を与えてくれる文化は、人並み以上に強く"とらわれ状態"にある一部の人によってしか作られない。

つまり退屈状態はとらわれ状態の犠牲のもとに成り立っている。人間は常に退屈状態で生きられないのは、それが社会構造として不可能だからだ。

結局のところ人は退屈状態をとらわれ状態を行き来するしかない。とらわれ状態そのものが悪いわけでもない。しかしながら退屈状態にたまに戻らないと、とらわれ状態から戻ることができなくなってしまう。そこに問題があるのだと思う。

理想の退屈状態としての日常系

ここでいつもの日常系の話を考えてみる。日常系とは"理想の退屈状態"なのだと思う。そこにはとらわれ状態である大きな物語もなく、消費を過剰に要求する複雑なコンテキストも基本的にはない。

社会においては"とらわれ状態"であることが非常に強く要求される。仕事だけでなく、家庭や娯楽に対してすら"とらわれること"が要求される。

そんなときに"理想の退屈状態"としての日常系を見ることによって、我々は少し退屈状態を取り戻すことができるのではないか。