Chim↑Pom展:ハッピースプリング

「正しくない余地」こそが現代アートの提起すべきものではないか。

現代アートが一般的に最も話題になるのは、作品や展覧会によって社会的に問題が起きたときである。その意味では最も「現代アートらしい」作家と言える。

自分はアートであることが法律的、倫理的な無罪を担保するものでは全くないという意見を持っている。むしろ無罪でないからこそ意味がある。

例えば落書きであればバンクシーであれ公共物破損として扱うべきである。それが「有名作家だから」無罪とするのは間違っている。アートの価値判断は警察や裁判所が行うべきではない。

ただし所有者が私物を棄損されたと思わないのであれば被害を届け出ない判断はありうるし、動機から情状酌量の余地もありうる。


自分がChim↑Pomを初めて知ったのは「広島の空をピカッとさせる」騒ぎの時だと思う。騒ぎになるのも当然だという想いの一方で、アートとしてはありだと思っていた。下記の本も読んだと思う。

一方で2010年頃に現代アートセミナーのようなものを受けていた時期があったのだが、そのメンバーの中でも評価は分かれていた。アートとしてはわかるけど嫌いという人も多かった。

そのメンバーは現代アートについては詳しい人達であり、その中ですら評価が難しい作家だった。それが今では森美術館で日本を代表する現代美術家の一人として展覧会を開くというのも感慨深いものがある。


今回その回顧展を観て思ったのは、現代社会に対して問題提起をするという意味での圧倒的なわかりやすさ。それでいて今でも倫理的な引っ掛かりをあえて作ることによって、物事を過度に単純化しないということが意識されているということだと思う。

例えば広島で倉庫にずっと保管されている折り鶴を正式な手続きで借り受けた上で、積み上げてかまくらのように中に入るようにした作品。これは今回初めて観たのもあり、言い方は悪いがゴミのように扱われていると感じて不快な気分にはなった。

しかしそもそも倉庫で保管されているというのはこの状態なのだろう。丁寧に全部上から吊るしてあるわけがない。折り鶴を折ることそのものは善意であるにも関わらず、善意であるからこそ負担になっているという現実をうまく問題提起したと思う。


現代においては自身が傷つかない位置から正しさで殴ることがエンターテイメントになっている。だからこそ、「正しくない余地」を残して問題提起することのほうがむしろ重要だ。

これがChim↑Pomの作品ということを知らずに街中で突然出会ったら自分はどういう反応を示すだろうか。たぶん倫理的な拒否反応を起こすと思う。しかしだからこそ意味のある作家なのだと思う。