秋葉原事件

「裏の自分」とどう付きあっていけばいいのか。

先に「令和元年のテロリズム」を読んだうえで、もう一つどうしても避けて通れない事件、それが「秋葉原無差別殺人事件」だった。これまであえて事件の詳細について書いた本は読んでこなかったのだが、これを機会に読んでみることにした。

最初に書いたが正直な感覚として、不謹慎を承知で言うならば実に文学的だと思った。

それはもちろん著者の書き方もあるのだけれど、不条理な破滅が最初に分かったうえで、それに向かっていく話として、日本各地を転々とするロードムービーとして、そしてなによりゼロ年代の等身大の男性の話として、よくできているからだと思う。

彼は社交的な性格というわけではないが、その人生の端々には仲の良かった友人の話が多く出てくる。学生の頃に友人の家に行ってゲームをやった地元の友人、職場の中で同じオタク趣味で仲のよかった友人、ネットで知り合って実際に会ってみた友人。その中で女性を好きになって失恋したりもする。

彼にはキレると他人に全く説明をせずに行動で相手にわからせようとする癖があり、それは家庭環境の問題によるものらしい。そのせいで周りとうまくいかなくなることもあるが、そういう不器用さを含めてイタイけどわかるという人も多いのではないだろうか。

その一方で彼は「本当の自分」でいられる場所を求めてネット掲示板の人格を作っていく。その人格が無関心という形で壊されたときに、彼は現実に介入することで、ネット掲示板の住人にわからせようとする。これが「秋葉原無差別殺人事件」であるというのが本書の解釈である。



ここからは本書の主張から外れて自身の考えになる。

本書では最後に彼はどうしたらこの事件を起こさずに済んだのかという問いに対して、幾人かの彼の人生を変えてくれた人生の先輩に対して相談できていたら良かったのではないかと書いている。しかし自分はそこに対して違和感を感じた。

彼はネットの自分が「本当の自分」で、現実の付き合いは「偽の自分」だと考えていた。それに対してネットは「偽の自分」だから現実の「本当の自分」に向きあえというのがわかりやすい正論である。

しかしそうなのだろうか。現実であれネットであれ我々は自身の一部を垣間見せているに過ぎない。ネットでは攻撃的だだが、現実に会うといい人だったというのは美談のように語られるが、「いい人」もその人の一部に過ぎない。

異なるのは現実かネットかという部分ではない。それはそのコミュニティにおける関係性の喪失が、どの程度の社会的なリスクに繋がるかという点ではないか。

例えば仕事仲間との関係であれば、その悪化は直ちにお金につながってくる。その意味ではかなり慎重な姿を自身としてみせなければならない。一方でリアルな知り合いと関係ないコミュニティであれば、多少は嫌われてでも目立ったほうが面白いかもしれない。

以前は現実のほうが喪失の社会的損失が大きいのが当たり前だったが、ネットのコミュニティが直接収入に直結するようになった今では、その社会的損失も無視できなくなっている。


そうであればネットでも現実でも我々は政治的に正しい自分以外は見せてはいけない。そもそも政治的に正しくない思考をすること自体が問題である。もちろんそれは正論である。

それでうまくいくだろうか。たぶんいかないだろう。そこからはみ出たなにかは、どこかに必ず出てくる。そういう政治的に正しくない「裏の自分」とどうやって付き合っていけばいいのだろうか。

自分が思うのは、表の自分との繋がりがあり、そういう裏の自分も知ってはいるが、決して他人に公開しない友人を作っておくことなのではないかと思う。

それは相手に「裏の自分」に共感を求めるということではない。ただ「こういうところもある奴なんだな」と複数の面を知ってもらうということである。

そういう関係性の友人であれば、あまりにも「裏の自分」が行き過ぎているようであれば、歯止めをかけてくれるかもしれない。

そういう相手は本当に信頼できる少数でいい。まあその相手に裏切られるリスクも当然あるのだけれど。


秋葉原事件の話に戻ると、キーになるのは「人生の先輩」ではなく、むしろ「オタク友達」だったのではないかと思う。

事件を起こすため秋葉原にトラックで行く直前に、彼は最も親しかったオタク友達にゲームや同人誌を全て渡す。彼に対して掲示板のことを話せていれば、もしかしたらなんとかなったのではないかと思うのだ。