歴史の終わり

経済成長は全てを覆い隠す。

昨今の"民主主義の敗北"という話の中で、必ずと言っていいほど参照されるのが本書である。そこでは大抵本書が最後の政治形態としての民主主義を唱えて、1990年以降の世界はそちらに向かうであろうと予言したという文脈になっている。

同じ著者の以下の書籍が非常に面白かったのもあり、一度ちゃんと読んでみるかと思って読んでみたらかなりの難物だった。
IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治 - yamak's diary

確かにこの本では「最後の政治形態としての民主主義」という話はしている。しかし主題はどちらかというと「民主主義」ではなく「最後の政治形態」のほうである。

つまり、歴史と言うのはなんらかの進化の道筋において進むということなのか、それともすべては相対的であり進化の道筋をというものを考えることは、西洋中心史観による態度なのかという点がまず議論の大前提にある。

この本ではあるという前提になるのだが、その理由として挙げられるのが、人間にはプラトンの言うように欲望、理性、そして気概の3つの要素があり、その3つを最もうまく満たすことができるのが民主主義だからという理由になっている。その過程でものすごくいろいろ話があるのだが省略する。

ここで気概というのをもう一段分解すると「優越願望」と「対等願望」というものになる。名前から既に察することができるようにこの2つは矛盾する部分がある。全員が対等であれば、各自の優越願望を満たすことができないという点である。

これを国民国家というレベルで満たそうとするとどうなるかというと、国家の中では対等でありながらも、国家間の競争の中で優越である必要がでてくる。それが悪い形になったのがファシズムであると。

そのため単なる経済成長という意味では民主主義よりも開発独裁的体制のほうが効率的である可能性についても既に書かれていることが面白い。しかし長期的には、それによって成長した中間層の対等願望による政治参加圧力によって、民主主義への道を歩むだろうと。


ここで現代の"民主主義の敗北"という文脈から本書の議論を振り返ってみる。

中国については開発独裁という形式での経済成長に成功したことの影響が大きい。21世紀に入ってからの欧米民主主義国家の長期停滞やリーマンショックの失敗を見たこともある。

国家間の競争の中で優越願望が満たされれば、対等願望による政治参加欲求も抑えられるというもあるのだろう。その意味では中国も経済成長が長期停滞に入ってからが、民主化圧力を抑えれられるかの次のポイントかもしれない。

イスラム教地域の民主化の失敗という点については、経済的成長をもたらせなかったという点も大きいと思うが、他者からの文化的自尊心に対する押し付けにより、国家間の対等願望の棄損が無視できないレベルだったということなのだと思う。

民主化するだけである程度の経済成長が確約できたのは、周りの国家が民主化していなかったからだ。民主主義国家が増えた中においては、民主化は競争の最低限のスタートラインに立てるレベルでしかない。それだけでは対等にすらなれないのだ。

欲望、理性、気概という3要素自体は間違っていないのだが、それを満たす方法は民主主義以外にもあったというのが、ここ30年での結果なのだと思う。