本書は仏像についての本ではあるが、明治以降の観音像についての記述がほとんどを占めている。近現代の仏像という時点で美術史からも宗教史からもかなり異質の本と言える。
自分は宗教美術を観たり、宗教関係の本を読んだりするのは好きだが、特定の宗教に対する信仰はほとんどない。特定の宗教に対する信仰心がないからこそ、造形や物語によって生み出される聖的なものとはなにかということに興味がある。
それでも宗教を意識せざるを得ないと思うこと、それはやはり"死"ではないだろうか。自分は幸い近親者も比較的まだ元気ではあるが、祖父は亡くなっている。
現代は100年前からは考えられないほど平均寿命も延びているが、それでも死の克服には遠い。それは無ではないと信じたいが故に、宗教という形を借りて物語を付加したい。その点については今もまだ多くの人が思うところではないだろうか。
本書によって書かれるように、太平洋戦争の前後で意味合いが異なるとはいえ、観音像は基本的に戦争被害者や従軍者の慰霊の目的で作られていたという指摘は興味深い。
また観光目的が強い大型の観音像についても詳しく記載されている。特に1990年代にはバブルで多くの巨大観音が造られたが、その中で現代も地域に親しまれているものは、慰霊の目的が明確で、宗教法人に所属しているものに限られるという指摘も面白い。
マリア観音という存在も面白い。言葉だけを聞くとキッチュな感覚を覚えるが、太平洋戦争の米国や東南アジアや被害者も等しく慰霊するための存在と聞くと、その重みが全く異なってくる。
観音というのは女性のように思われているが本来は性別がない。そのため母性のような概念を性別と関連付けることが問題視される文脈でも観音であれば問題がない。
今後も死によって必要とされる現実と宗教をつなぐ存在として、観音は必要とされ続けるのだろうと思った。