デイヴィッド・ホックニー展


アートによる次元圧縮という新しい映像体験を得ることができた。

デイヴィッド・ホックニーの名前はなんとなく知っているが絵の印象はない。宣伝も観たがピンと来なかった。正直期待度は高くなかったのだが、このピンと来ない絵を別の角度で見ると新しい映像体験であった。

それが端的に表れるのが"ダブル・ポートレート"のシリーズだと思う。

重要なのはサイズ、リアリズム、フラットの三つの要素ではないかと思っている。まずサイズだが、絵画内の人物の大きさが現実の観ている我々の大きさと物理的にほぼ同じになるように設定されている。そして人物については色合いはビビッドだがリアリスティックだ。一方で背景は塗りも描き方も平面的だ。

これにより絵画が現実の世界をそのまま平面化したような効果が産まれる。いや絵画や写真はそういうものだろうと言われればそうなのだが。写真を現実の人物の大きさに引き伸ばしてもこの効果は出ないだろう。またこの絵画を小さいサイズで観てもこの効果は出ないだろう。

つまり大きさや人物という現実との相似と、背景や色の現実との違い。その絶妙な選択によって、絵画とは三次元の二次元化であるという当たり前のことを意識的に明示したのがこの絵画であるということだ。

それを近年の技術でもう少しわかりやすくしたのが"2022年6月25日、(額に入った)花を見る"だろう。これは美術館で絵画を観る我々自体が平面化された世界と一続きになっている。SF小説"三体"には次元圧縮という概念があるのだが、それを思い出した。


そしてもう一つ興味深かったのがiPadを使った絵画であった。イラストであればiPadをメインでつかう作家も珍しくないし、最近のアーティストであれば、最終的な制作に使用するかはとにかく使う人は珍しくないだろう。

使っている手法自体も別にデジタルバリバリの手法というわけではない。ブラシも意図的に1種類しか使用しておらず画像加工もしていないように見える。iPadでなくてWindowsのペイントでも描けると思う。

重要なのはデジタル絵であることではなくて、その展示方法にある。デジタルになった時点でデータさえあれば誰のスマホでも閲覧できる。それは民主化であると同時にアートと美術館の特権性を奪うことになる。

一つは他の油彩絵画と並べて同じ大きさの大画面モニタで表示するということだ。これは動画ではなく静止画をあえてモニタで表示していることに意味がある。モニタは作家が描いたときと同じメディアなのだ。特に風景画のような光を扱う絵画の場合は、光が発光体であるモニタで同じように再現されることには、印刷という別のメディアに移すこととは別の意味が出てくるのだ。

また"春の到来"では印刷ではあるが、先ほどの"ダブル・ポートレート"と同じく等身大の絵画になっている。 これにより小さなモニタでは感じることのできない没入感を得ることに成功している。"ノルマンディーの12か月"では絵巻物のように絵画を繋げることにより、移りゆく時間を一つの絵画の中で表現している。

重要なのは等身大や絵巻物といったフォーマットそのものではない。iPadという小さなモニタの中で誰でも使える表現で制作されたものが、大きさと展示方法という手段を得ることによって、モニタの中では得ることのできない効果を得ることができているという点である。これによって特権性のないデジタル絵画が、アートと美術館の特権性を獲得している。

作品自体は一見綺麗でわかりやすい。それだけを広告メディアで観れば凡庸にすら見えなくもない。それが美術館という場で観れば一変する。これを意図して行えるということは凄いことだと思う。