エヴァンゲリオン新劇場版 全体

シン・エヴァンゲリオン劇場版 作品単独については以下に書いたので、新劇場版全体について別に書く。
シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| - yamak's diary

新劇場版全体の大きな物語構造を改めて考え直してみると、「エヴァを終わらせる」という目的のために実に一貫しており、最初の時点からこれを構想していたとすると戦慄するくらい見事だと思う。

序破Qシンが四コマの起承転結にそれぞれ当たるというのは明確だろう。起で物語がいつもの時点から始まり、承でそれを受けて物語が独自の方向に動き出し、転でこれまでの展開を超えた驚きを見せて、結で起承の流れと転の展開をつなげることによってオチとする。それによって起のいつもの時点に戻る。新劇場版は完璧にこのフォーマットに沿った物語構成になっている。

旧作との大きな違いはあたる以下の点だ。シンを観た今となっては、それは「エヴァを終わらせる」ための必然でしかなかったことは理解できる。

  • マリの存在
  • ネルフとヴィレの決別
  • 14年の歳月の経過

マリは旧作の外部の存在として、ネルフとヴィレの決別は物語としての人類補完計画を終わらせるため、14年の歳月の経過はもちろん、現実の歳月の経過と「大人」になることとしてだ。

エヴァは旧作の時点で、自らの構築した物語をメタレベルで批判し、物語を客観化する物語だった。その旧作の外にさらにメタレベルの物語を構築し、旧作と全く同じ構造を別の方向で繰り返すことでそれを終わらせるという、エヴァにしかできない物語だと思う。

庵野にとってQの悪評はそれはつらかっただろう。庵野はこの構造を最初から意図しており、全ての自身の物語に囚われた人の救済のための仕掛けだった。だけどその仕掛けをばらすことは絶対にできない。Qに対する批判も肯定もいろいろ読んだが、微細な設定の考察はあっても、こういう物語全体のメタレベルの考察はなかったように思う。

虚構に対する惜しみない愛と、それは虚構でしかないことに対する自覚的な否定。その二律相反こそがエヴァであり、その意味において完璧なエヴァだったと思う。